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 ←第16話 明日への歌を →エピローグ
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ココロ~another future~

第17話 ココロ

 ←第16話 明日への歌を →エピローグ
 レンは戦慄していた。こんなにも広いのか。ここが満員になるほど、人が集まるのか。
 娯楽帝国と称されるニコツーが誇る、センタードーム。イベントが行われていない今はがらんどうだが、それでも首を回さなければ見渡せないその内部は、レンに衝撃を与えた。
 君達が歌う場所を、知っていてほしい。覚悟もいるだろう。その上で、もう一度答えを聞かせてくれないか。美鈴にそう言われ、リンとレンはセンタードームを入場口から見渡している。
 何度も訪れているはずのリンも、今は唇を真一文字に結んで無人のドームを見つめている。いつもとは違う姿に見えているのかもしれない。
 「ここが、センタードーム。さまざまな娯楽施設があるニコツーだが、旅行者のほとんどがここで行われるイベントを目当てにきている」
 ドーム入り口に設置された喫煙者用スペースで、美鈴が煙草の灰を灰皿に落とした。
 「私が物心ついた頃に、センタードームは完成した。当時はビリー会長のお父上がHNNRの会長だったんだ。……あぁ、レンは知らなかったか。HNNRは、センタードームの管理会社だ。ニコツーの政務を取り仕切っているのも、その会社でな。事実上、ニコツーを管理していると言っていい。
 センタードームでは、色々なイベントが行われている。戦争前にあった森林や海のVR再現、各国の代表を集めてのスポーツ大会。昔はオリンピックなんて名前もあったそうだが、今は数える程しか国がないからな。形式は廃れてしまったみたいだよ。
 今見えている客席だが、本来はセンタードームに存在しない。可動式の客席でね、普段はドームの地面に埋め込まれる形で収納されている。私がメイコを作った時に、就任したてのビリー会長が作ってくれたんだ。VOCALOIDは、センタードームで歌うべきだと言ってね。
 ――分かるかい、リン、レン。君達のための客席、そしてセンタードームだ」
 息を飲んだ。VOCALOIDになるということを、レンは楽観視していた。ミクやメイコ、カイトが楽しそうにライブの話をしていたので、彼らも楽しく遊ぶ感覚でやっているに違いない、そう思い込んでいたのだ。
 しかし、目の前に広がる舞台、その場で寄せられるであろう幾万の期待、羨望。彼らVOCALOIDは、それに応えているのだ。歌うことで、人々の希望となっている。肉体を得てわずかの時しか生きていないレンにとって、それはあまりにも重荷であった。
 足が震える。声も出なかった。美鈴の声だけが、聞こえてくる。
 「ここで歌う、それは尋常ではない覚悟がいることだろうと思う。まして、メイコ達のようにVOCALOIDとして生まれてきたわけではない君達は特に。
 だから、急いでくれとも言わない。どうしても頷けとも言わない。私は君達に、最後の確認をしているだけ。降りるならここが最後の停車駅だ。
 リン、レン。それでも君達は、VOCALOIDになると言ってくれるかい?」
 連れてこられた時は、今更覚悟など、と一笑に付したものだ。しかし、今はその時の気持ちはどこへやら、コアが高鳴り、恐怖にも近い感情が芽生えてくる。
 声を出すこともできない。リンは、どう思っているのだろうか? そう考えた直後、まるで伝わったかのように、リンは口を開いた。
 「……メイコさんのライブを始めて見た時、私はとてもびっくりしました。アンドロイドが歌ってるってのにも驚きましたけど、それ以上に――たくさんの人前で、力強く歌い続けるメイコさんが、眩しくって、かっこよくて。
 あの後も、ミクちゃんとカイトさんのライブも、何度も何度も見てきました。みんな楽しそうで、特に心を得てからのメイコさんは、誰よりも歌が好きって気持ちが伝わってきたの。
 ミクちゃんとカイトさんの歌は、座ってるお客さんもいっぱいいて、目を閉じて聞き入ってる人もいるくらいなんですよ。私は望遠レンズでお客さんの顔が見えるんです。メイコさんの時とは違う雰囲気だけど、みんな心は同じで、とても楽しそうで、満たされていて……。
 何度もマリーに『リンもVOCALOIDになりませんこと?』なんて言われてましたけど、どうしても想像できなかったの。私があそこに立って、歌う姿を思い浮かべられなかった。ねぇ美鈴さん、美鈴さんは私がVOCALOIDとして舞台に立っている姿、想像できます?」
 「……正直、おっちょこちょいでお茶目なリンが、人前で歌を披露する姿を想像するのはとても難しいよ」
 「むぅ。ひどいなぁ」
 言いながらも、リンは笑った。美鈴も煙草を咥えたまま、肩を震わせる。
 「今も、これからも、私はあの場で歌う自分を想像できない。あんな場所に立って、たくさんの人に注目されるなんて、怖くてできません。……1人じゃ、とてもできませんよ。カイトさん達は、本当にすごいと思う。
 だから、私は――」
 手に感じた温もりに、レンは幾ばくかの安堵を覚える。握ってきたリンを見れば、彼女はにっこりと、愛らしさの中に覚悟を秘めた表情をしていた。
 「レンと歌います。レンとなら、あの場所に立てるから」
 「……」
 レンは俯いた。センタードームの大きすぎる静寂が、あまりにも冷たくレンを包む。
 VOCALOIDになりたい。心の世界で聞いたリンの声に、レンはすぐに頷いた。あの時は、彼女がここまで自分を頼りにしてくれているとは思わなかった。
 歌いたくないわけではない。期待してくれる家族がいる。頼ってくれる片割れの少女がいる。だが、包み込む巨大な無音が、レンの心を圧迫する。
 頷けば、全てが始まる。首を振っても、彼女らは自分を責めないだろう。どちらにしても、日常が消えることはない。
 しかし、しかし。レンは胸中で何度も自分を殴っていた。何をためらうのか。アンドロイドでも、自分は男なのだ。
 踏み出さなければ。臆病風に吹かれた自分の心に、レンは向かい合う。覚悟を決めろ。自分のために。リンのために。美鈴のために。
 今はもういない、父のために。
 「……レン? もしかして、嫌になっちゃった?」
 「あぁ、レン。どうしてもというなら、私は今からでも無理強いはしない。嫌というなら」
 顔を覗き込むリンと話の途中だった美鈴を、レンは右手を突き出して制した。そして、虚空の支配するセンタードーム中央へと、向き直る。
 息を吸った。アンドロイドには必要のない行為だ。しかし、今のレンには必要だ。
 吐き出してやる。弱い自分を、叩き出してやるのだ。
 「ああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!」
 あまりにも大きな、絶叫。センタードーム中に響き渡ったレンの叫びは、広がり包んだ静寂を突き破った。もう一度、大きく息を吸いなおす。
 「うわああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!」
 隅々まで、わずかな隙間も許さないほどに、レンの絶叫はドームに充満し、そして消えた。
 機械の自分に疲れはない。だが、再び静寂を取り戻したセンタードームを前にして、レンは先ほどとはまるで違う心境にいる自分を感じた。
 「……ははっ。なんだ、こんなもんか」
 唐突すぎるレンの行動に、リンも美鈴も目を丸くしている。しかし、レンはそちらを見もせずに、センタードームを見下ろした。
 たったの一瞬。だが、その一瞬だけでも、レンは間違いなくセンタードームを支配したのだ。もはや、怖いという感情は消え去っていた。
 「俺はやれるよ」
 呟いて、叫んだ時に離してしまったリンの手を取る。その目を見て、リンは微笑んでくれた。レンの気持ちを悟ったようだ。
 「美鈴さん」
 「……」
 振り返ってみると、美鈴もまた、リンと同じような微笑を浮かべていた。分かってくれる家族がいることを、レンは心から嬉しく思う。
 「俺、リンと歌うよ。VOCALOIDになるよ」
 「……そうか」
 煙草を消して、美鈴はこちらへ近づき、そして突然、リンとレンを抱きしめた。驚いたが、レンは抵抗せずに体を預ける。
 「ありがとう、私の愛する家族達。誰よりも、君達を誇りに思う。
 君達だけに大変な思いはさせない。一緒に鳴らそう、『心』のベルを」
 心のベル。いい言葉だな、とレンは思った。抱きしめられたまま、リンがクスクスと言った。
 「美鈴さん、ショボンおじさんみたい」
 「あぁ、おじさんの受け売りだ」
 「やっぱり」
 美鈴が2人を解放する。再びセンタードームを見渡すと、先ほどまでの虚無はなく、レンを認めてくれたかのように空気が自分を包んでくれるのを感じた。
 ここに訪れる人々は、歌の中に生きる希望を求めている。VOCALOIDと呼ばれる者達に助けられる沢山の人がいる。
 世界中には、もっともっといるはずだ。幾万幾億の人々が、VOCALOIDの歌を待っているかもしれない。未来を、歌と共に歩きたいと願う人が、無数にいるのだ。
 レンは思う。ニコツーだけなんかじゃない、世界中に届けたい。歌と心を、全ての人に届けてやろう。
 視線の先にある舞台が、その先にある世界への第一歩なのだ。リン達と一緒に歩く道が待っているのだ。
 「センタードームだけじゃない。世界中が、俺達のステージだ」
 「……あぁ、そうだ。世界は、君達のものだ」
 美鈴が肩を叩いた。振り向かずに、頷く。たった一度、強く強く。
 しばしの静寂。機械の少年と少女は、センタードームを静かに飲み込んでいく。半世紀の時を経て与えられた大きな使命を、飲み込んでいく。
 「……さて」
 2人の背中を押して、美鈴は目を細めた。
 「あぁ、君達の職場案内をしよう。まずは地下の控え室だが、せっかくだから舞台袖から向かおうか。イタズラをしてもいいところと悪いところは、教えておかないとな」
 「えぇっ! イタズラなんて、しませんよ!」
 「そうだよ美鈴さん、リンじゃあるまいし」
 「ほら、レンだってそう言ってるじゃないですか。私じゃないんだから、イタズラなんて! ……ん? 私?」
 きょとんと考え込んで、答えに辿り着いたらしいリンが、みるみる怒りの表情に変わっていく。彼女がこちらを見る前に、レンは走り出した。
 「舞台袖、一番乗りー!」
 「レンのバカァ! 逃げるなー!」
 追いかけるリンの楽しげな怒声と、カラカラと快活な美鈴の笑い声が、背後に聞こえた。
 立ち止まって、振り返る。こちらに駆け寄るリンが、気づけば笑顔になっていた。リンに向かって、手を伸ばす。彼女と一緒なら、どこまででも行ける。
 リンと一緒なら、皆の心に、奇跡を起こせる。
 「見ててね、父さん」
 握られた手とココロは、とても温かかった。




 届けられた楽譜を見て、カイトは友人が心血の限りをその歌に注いでいることを悟った。
 曲がいいとか歌詞がいいとか、そういう陳腐な感想すら思い浮かばないほど、その歌はとても大きな力を持っていた。
 歌を己の存在意義としているVOCALOIDカイトにとって、リンとレンのために用意された歌には羨ましさすら覚える。もちろん、自分達の歌が手抜きなわけではない。トラボルタはカイトやミク達にも素晴らしい楽曲を提供してくれる。
 だが、違う。カイトには分かるのだ。歌で心の傷を癒す自分達の歌とは違う、歌で心そのものを変えてしまう、そういった力が込められていた。
 自分達にはできない、リンとレンにしか――あの不思議なアンドロイド達にしかできないこと。トラボルタはそれを見抜いていたのだ。
 自宅である研究所の応接室で、楽譜を自ら届けてくれたトラボルタと談笑していた。データ化せずに紙で持ってくるあたり、トラボルタのこだわりが感じられる。
 「……さすが、としか言えないね」
 楽譜を置いて、溜息をつく。本当に、それ以外の言葉が思いつかなかった。カイトの淹れたコーヒーを1口飲み、トラボルタがカップを置く。
 「ありがとう。君達の時は楽しく歌を書いているけれど……ここまでプレッシャーのかかる歌は、生まれて初めてだった」
 「だろうね。譜面から伝わってくる。とても優しいけれど、その分重く強すぎる歌だ。歌うのも、苦労しそうだよ」
 「そうかもしれない。でも、君の心も変えてくれた彼女達なら……きっと、歌いこなせる」
 譜面のタイトルに指で触れながら、カイトは頷いた。
 トラボルタには、リンと自身の心の世界であったことを、洗いざらい全て話していた。彼はそれを真剣に聞いて、その上で慰めることもせず、全てを受け入れてくれた。リンがマリーを大切にするように、カイトにとってトラボルタは親友と呼べる存在になっていた。
 「僕に心のありかたを教えてくれたリンとレンだ。やってくれるよ」
 「信じているさ。人以上に心を知っているあの子達なら、何度だって奇跡を呼ぶと」
 頬杖をついて、カイトは目を細めた。
 「奇跡……か」
 いつもひまわりのような笑顔を見せてくれるリンと、最近体を手に入れたばかりなのに、昔からの家族のように思えるレンを思い出す。
 「本当に、彼らは奇跡そのものだよ」
 「……」
 独白というほどでもないが、促しもせず黙ってコーヒーを飲むトラボルタに胸中で感謝しつつ、カイトは続ける。
 「当たり前になってしまっているけれど、考えてみると、アンドロイドに心があるなんておとぎ話みたいだ。僕が言うのもなんだけど。
 最初は過ぎたものだと思っていたよ。機械に心なんて、あまりにも贅沢すぎる。そんなものが無くとも、僕らは使命を果たせる、ってね。
 ……でも違った。心がなければ果たせないことが山ほどあった。僕の仕事には特にね。人々の心を癒す僕らが、心を持たなくていいわけがなかった。あんなに楽しそうに歌について話すメイコとミクを見ると、なおさらそう思う」
 「歌に携わる者として言わせてもらうと、君達が心を手に入れる前と後では、歌い方にも違いが出てきているよ。カイトは変化なく歌おうとしているから隠れがちだけど、メイコは特によく分かる」
 「うん、メイコのは僕も分かるよ。こう、勢いが段違いだね」
 2人して、笑う。メイコのライブは力強さが売りだったが、今は彼女の性格もあってか、観客に座る暇を与えない。怒涛のごとく歌い、喋り続けるのである。観客達がライブ後に汗だくで息を切らせているのは、メイコが歌った後の代名詞のようにすらなっている。
 そんな観衆達は、実に満足そうな顔で帰っていくのだ。もちろんそれは、ミクの時も、自分の時も同じで、皆が満たされて家路につくのを見るのが、カイトの生きがいでもあった。
 「ミクとカイトのライブの方が、僕にはあっているみたいだけどね」
 トラボルタが苦笑する。カイトとよく似た性格だ、無理もないと思った。
 「嫌いじゃないけど、確かにあの場で一緒に盛り上がるのは、難しいね」
 同意すると、トラボルタは頷きながらコーヒーを飲み干した。おかわりを淹れるために、カイトは立ち上がってすぐ近くのポットに向かう。
 「心を得て、たくさんのことを知ることができた。悲しみや悩む苦しみ、歌うことの楽しさも、友人とこうして話をする時間の大切さも。あの子達がVOCALOIDになることで、人々にも色々なものを思い出してもらえるかな」
 新しいコーヒーを差し出すと、トラボルタは礼を言って受け取った。対面に座ったところで、彼は湯気の立つカップに視線を落とす。
 「そうだね……。人々は今もまだ、流行自殺の精神的な傷が癒えていない。どころか、また愚かな戦いを繰り返そうとしている。知っているかい? アフリカ北東部では最近紛争が起こっているそうだよ」
 「アフリカというと、あの大国ドワンゴじゃないか。ドワンゴは平和主義国家だったはずじゃあ」
 「そうなんだけれど、アフリカ州知事が自殺したらしい。彼の本拠だった北東部の小規模都市は州知事を崇拝していてね。州知事の自殺は国家が酷使したせいだと言い出して、あろうことか武装蜂起したそうだよ」
 驚愕した。戦争は人々に多くの傷跡を残して、消え去ったはずだ。それが今、再び小さな火種が灯ってしまった。争いの炎は、瞬く間に広まるものだ。
 遠い国で起きていることでも、トラボルタの口調からは危機感が消えない。
 「ドワンゴは非戦争国家だから、防衛力として持っていた武装をアフリカに置いていた。それらを全て持っていかれたそうだよ」
 「それは……洒落にならないね」
 「うん。手を打てなくなったドワンゴは、WCHに紛争の鎮圧を要請したみたいだ」
 南北アメリカ大陸を支配下に置く国家が、WCHである。軍事力では世界最大であり、旧アメリカ合衆国の力を受け継ぐ警察国家でもあった。
 人間は、また戦争がしたいのか。カイトは若干の苛立ちを覚えて、眉を寄せる。コーヒーを1口飲み込んだトラボルタが、目を閉じる。
 「繰り返させてはいけない。人々はもう、無駄な争いをする力なんて残ってはいないんだ。カイト、それを止められるのが、君達心あるアンドロイドだと、僕は思っている。
 戦争も流行自殺も、きっと人は人の手で止めることができない。人間は愚かだ。同じ人間の言葉に耳を貸さない。だから悲劇はなくならず、何度も何度も繰り返される。
 そんな愚かな人間でも、本当の意味で心を変える時があることを、僕は知った。心のある君達アンドロイドが、秋山さんや立川さんの心を変えた。観客達に希望を与えた」
 カップを置いて、トラボルタは身を乗り出した。
 「思い出させるんじゃない、教えるんだ、カイト。君達だけが、人に心を教えられるんだ。心が持つ僕らの知らない部分を見れるのは、君達だけなんだ。
 心の世界、その場所に赴けるのが何よりの証拠だ。僕ら人間にはもう、それこそ作り話のようにしか思えない話だよ。それを君達は知っている。そして僕達に教えてくれる。これこそが、人々の心を変える原点なんだ。
 リンとレンだけじゃない。君もメイコもミクも、奇跡を起こせるんだ」
 いつになく熱く語ってから、少し冷静になったトラボルタが咳払いをした。
 「ごめん、少し取り乱した」
 「いや、そんなことはないよ。ありがとう」
 納得と喜びの中で、カイトは友に頭を下げる。リンとレンに感じていた奇跡が、カイトにもあるのだと、トラボルタは言ってくれた。これが嬉しくないわけがない。
 歌うことしかできないと思っていた。それだけで救われる人がいるなら歌い続けようと、そう考えていた。
 それが今、否定された。さらなる力があることを、気づかされた。
 「でもトラボルタ、1つだけ訂正させてくれないか」
 返事を待たずに、カイトは言った。
 「人間は確かに、同じ過ちを繰り返す。何度だって失敗をする。それでも、それでも僕はこう思うんだ。
 人は愚かなんかじゃない。手と手を取り合って歩くことができる。Dr.秋山や立川さん、ヤンさん。沢山の人を見てきたけど、誰もが皆、誰かに手を差し出すことができる人達だった。
 トラボルタ、君だってそうだ。君の歌が、僕らに力をくれている。心を教えてくれたのだって、きっと最初は君の歌だったはずだ。あの歌を作れる君が、誰かの声を聞こうともせず争いを繰り返すような奴だと、僕は絶対に思わない」
 目を逸らさず、トラボルタは聞いてくれている。ほらみろ、とカイトは思った。これほど真剣に友人の言葉を聴いてくれる男なのだ。
 「君は愚かなんかじゃない」
 「……」
 「僕達VOCALOIDが奇跡を起こすには、人の心を変えるためには、君の力が必要なんだ」
 立ち上がって、カイトはトラボルタに頭を下げる。
 「君が望んでくれている歌い手でいるために……。アンドロイドと人ではなく、心を通わすことのできる友人として、僕と僕の家族に、その力を貸してくれ」
 わずかな沈黙の後、対面のトラボルタが笑うのが分かる。顔を上げると、彼はいつもの好青年の表情で、冷めかけたコーヒーを飲んでいた。
 「君と僕は、本当によく似ているなぁ。突然熱くなったりするところも」
 「……それは、申し訳ない」
 素直に謝って座ると、トラボルタは首を横に振った。
 「謝らなくてもいいさ。お互い様だしね。……それで、君の願いなんだけど」
 姿勢を正して、彼は続けた。
 「もちろん、喜んで。僕の歌が君達の力になるなら、僕は今まで以上に魂を込めて歌を作る。もう感性に任せて楽しむ歌作りは……趣味に留めるよ。歌い手達が本気なら、僕も本気になる。遊びはもう入れないさ」
 あれだけ素晴らしい歌を作っておきながら、趣味だ遊びだと言ってのけるトラボルタは、やはり天才なのだろう。その彼が、本気になってくれた。カイトは思わず胸が熱くなるのを感じる。
 奇跡を起こそう。リンとレンだけに任せるような真似はしない。最大の親友、トラボルタ・ウェーバーとならやれる。溢れ出す感情を、カイトは一言にまとめ、友に伝えた。
 「……ありがとう」
 「こちらこそさ。ありがとう、カイト」
 立ち上がって、トラボルタは自分のカバンを肩にかけた。カイトも同じく椅子から立ち、
 「帰るのかい?」
 「うん、お暇するよ。今日はいい歌が書けそうだ」
 満足そうに、トラボルタは伸びをした。彼を送る為に、玄関に向かう。
 研究所のドアを出たトラボルタの背中に、カイトは声をかけた。
 「それじゃ、また。気をつけて」
 「うん、また」
 よほどいい曲でも閃いたのか、足早に歩き出すトラボルタを見送ってから、カイトはふと空を見上げた。
 焼けた大地とは対照的なほどの晴天。エアフィルターを突き抜けてそれと分かるほどの青い空が、そこに広がっていた。
 この空が繋がる場所に、今も心を病んだ人たちがいる。彼らの心を癒し、変えることができる力が、自分にある。それに気づかせてくれた全てのものに感謝しつつ、
 「一緒に奇跡を起こそう。リン、レン」
 ココロをくれた少年と少女に、カイトは誓うのであった。
 



 風呂を上がって寝巻きに着替えた後、マリーは自室で、いつものようにシーナに髪をとかしてもらっていた。まだ少し濡れている髪は、彼女の巻き癖を少しだけ弱めている。
 化粧台用の丸椅子を2つ並べて、マリーはシーナに背を向けて座っている。丁寧に櫛を通す母に、マリーが言った。
 「お母様、オトナになるって、どういうことなのでしょう」
 「あらあら」
 毎日聞いている声と寸分変わらぬ口調で、シーナは手を止める。
 「マリアも気になるお年頃かしら?」
 「どうなんでしょう、よく分かりませんわ。ただ、最近……レンが来てから、リンがずっと大人っぽくなった気がするんですの」
 「そうねぇ、リンちゃんは変わったわねぇ。お姉ちゃんになったのかしら」
 再び櫛を通し始めたので、マリーはシーナに背を向けたまま、うーんと唸る。
 「リンは元々、私より年上ですし。あ、精神的な年齢のことですわ。でも、リンは話しやすくて親しみが持てて、なんというか、どちらが上とか下とか、そんなことをちっとも気にさせない人ですの。
 今でもそうですわ。リンは分け隔てなく接する素敵な女性だと思います。でもね、お母様。リンの口調や仕草がとても大人っぽくなって、なんだか私、置いていかれちゃったなぁって、そんな気になるんですの」
 俯き気味に言って、マリーは溜息をついた。他の誰よりも大切な友達であるリンを、遠くに感じてしまう。ここ数週間で彼女が抱えた、とても大きな悩みだった。
 「リンは、大人になってしまったのでしょうか? 私はまだまだ子供ですから、リンと友達でいるのは、もう無理なんでしょうか?」
 「あらぁ、なんで?」
 髪をとかし終えたようなので、マリーは母の方を向いた。いつもと何も変わらない、優しい微笑を浮かべている。その瞳は、娘の悩みを一身に受け止める母のそれだった。
 「バーボンハウスのショボンおじさまのお話は、しましたわよね」
 「えぇ、何度も聞いたわ。秋山さんの叔父上様に当たるそうね」
 「そうですの。私とリンが初めて遊びに行った時から、とてもよくして頂いてますわ。おいしいジュースやサンドイッチを作ってくれて。そのおじさまが、私達とは友達だと言ってくれたんですの。
 私は今でもおじさまを友達だと思っていますわ。でも、私はおじさまに何もしてあげられません。ショボンおじさまは大人で、私は子供ですもの。おじさまの喜ぶようなことは、何もできません」
 否定もせず、シーナはじっと、娘の独白を聞いていた。マリーが遠慮なく話せるよう、柔らかな表情のままで。
 「いつかきっと、私が大人になったら、おじさまのためにしてあげられること……お店のお手伝いとかですけれど、してあげられたらなって思ってますの。お友達なんだから、お互いに……その……」
 「持ちつ持たれつ、かしら」
 「そう、それですわ。もっと背が伸びて賢くなったら、おじさまのお手伝いもできると思いますの。 
 でも今は……おじさまは私をお友達ではなく、娘のように、もしかしたら孫のように見ていると思うのです。仕方ないことだと分かっていますわ。年もずぅっと離れていますもの、お友達といっても限界があることくらい、私にも分かります。だから、今はこれでいいと思うのです。
 でも、お母様、でもね。リンは嫌なの」
 母は、何も言わない。ただ、力なく膝に置かれたマリーの手を、そっと握ってくれた。
 「リンがVOCALOIDになるって聞いて、すごく嬉しかった。飛び上がって喜びましたわ。すぐにリンに電話して、私、舞い上がっちゃって。それからしばらくしてリンと遊んだ時、気づきましたわ。話してるうちに、いつもと同じはずなのに何か違うって。
 VOCALOIDになるということが、どれほどのことか。リン達の気持ちを知らずにいた私も悪いと思いますわ。リンががんばるって言うなら、私は応援したい。親友ですもの。でも……リンが変わるのは、大人になっちゃうのは、嫌なんですの」
 「マリア……」
 「私はまだ10歳、子供です。すぐ大人にはなれない。でもリンは違うんですのね。リンは500年も生きているんですから、きっかけがあったら簡単に大人になれてしまう。そういうことだったんですわよね。
 このままだと、きっと近いうちに……リンはショボンおじさまと同じような目で、私を見るようになってしまう。子供のマリアロンドと大人のリンは、今までのお友達ではいられなくなってしまうんです。私、そんなの嫌。嫌なんです。これからもずっと、遊んで、手を繋いで、笑いあって、そういう友達でいたいんですの。そうできなくなるくらいなら……いっそ、VOCALOIDになるの、止めてもらいたいくらい……」
 苦しい気持ちを搾り出すように、マリーは母の手をきゅっと握る。シーナが、空いた手で髪を撫でてくれる。 顔を上げると、シーナはいつになく真顔で、マリーの瞳を見つめ返してきた。
 「マリアロンド」
 返事を忘れてしまうほど、いつも笑っている母の声は真剣みを帯びていた。
 「お母様は、悲しいわ」
 「……え?」
 理解できず、マリーは呆けた声を上げた。しかし、眼前のシーナは確かに悲しそうな表情をしている。
 「いいですか、マリアロンド。あなたにとって将盆さんやリンちゃんがどれほど大切なお友達で、その方達をマリアが大切に思っていることは、とてもよく伝わりました。
 でもね。人は……いいえ。心は、必ず変わっていくものなの。あなたの言った『大人になる』ということもそう。誰かと新しく友達になるのも、誰かに恋焦がれるのも、別れの寂しさが癒えていくのも、全てね。
 お友達とは違うけれど、マリアが産まれた時、私はとても幸せでしたよ。世界で一番の宝物が、腕の中で元気に泣いている。あの時の喜びは、とても言葉で表現できません。……でも、それももう思い出。マリアが大きくなるにつれて、時間が経つにつれて、あの時の記憶は薄れていくわ」
 「……そんな、それじゃあ」
 母の言葉が、胸に突き刺さっているかのようだ。しかし、シーナは笑って、細くて綺麗な指で頭を撫でてくれた。
 「マリア、あなたが産まれた喜びはもう思い出になってしまったけれど、あなたは今でも、母の一番の宝物ですよ。薄れていく思い出よりずっと沢山の幸せを、私とお父様に届けてくれるんだもの。
 あなたが大きくなって、賢くなって、大人になっていく。マリアが変わっていくのは寂しいけれど、それでもあなたは、私のたった1人の、可愛いマリアロンドなの」
 母の言葉に心が満たされていくと同時に、マリーは自分の目が潤んでいることに気がついた。泣き虫な自分は、やっぱり子供だと思う。
 「ねぇマリア。あなたが私の言葉に悲しいと感じたならば、マリアがリンちゃんに思っていることもまた、悲しいことじゃないかしら。
 確かに、リンちゃんは大人になったわ。この短い期間で、びっくりするくらい。でも、だからって今まで通りの友達でいられないなんてことを言われたら、リンちゃんはどんな顔をするかしら?
 そうねぇ、きっと小さな子供みたいに、わんわん泣くと思いますよ。秋山さんから聞いてるの。リンちゃんもマリアと同じくらい、泣き虫だって」
 子供扱いされているのに、今はそれが心地よかった。はにかむように、マリーは笑った。自分でもよく分からない声が出て、それがまたおかしくて、嗚咽のような声で笑う。幼いマリーに、シーナは優しく語った。
 「例えどんなに年が離れても、どちらかが大人になってしまっても……。マリアが子供のままであっても、2人の関係は崩れやしないわ。お母様が保障します。
 だって、考えてもみなさいな。リンちゃんはアンドロイドなのよ? それなのに2人は、ちっともそんなことを気づかせないほどに仲がいいじゃない。今更リンちゃんが大人になったとしても――例えば、体まで大人になってしまったとしても、きっと2人は友達のままだわ」
 「そう……でしょうか……。私は、リンとお友達でいても、いいのでしょうか」
 マリーはシーナと目を合わせた。シーナははっきりと、頷いた。
 「迷うことはありませんよ、マリア。あなたがお友達だと胸を張って言える人なら、迷わず彼女の親友でいなさい。どんなにケンカをしても、ちゃんと仲直りできるお友達でいなさい。あなたがそうあろうとすれば、必ずあの子は応えてくれますよ。
 リンちゃんみたいな素敵な子と友達になれたことを、大切に思いなさい」
 「……はい」
 はっきりと答えると、シーナはいつもの優しい微笑みを浮かべた。
 「いいお返事です」
 そう言って、シーナは立ち上がる。もう寝る時間がきてしまったようだ。本当はもっと話をしたかったのだが、マリーは素直にベッドへ向かう。
 「マリアに素敵な親友ができて、お母様も嬉しいわ」
 照明を落としながら、シーナが言った。もう部屋は真っ暗なので見えないだろうが、それでもマリーは、強く頷く。
 「リンがいなかったら、私はきっと、いい子になれなかったと思いますわ。本当に……リンがいてくれて、よかったと思ってますの」
 「……あなたはいい子よ、マリア。私の娘だもの」
 「うん。これからもずっと、いい子でいますわ。お母様が自慢できるマリアロンドになります」
 部屋の扉が開かれ、暗い部屋に廊下の光が差し込んできた。母が振り向く。逆光で顔が見えなかったが、きっと微笑んでくれているに違いない。
 「おやすみ、マリア」
 「おやすみなさい、お母様」
 名残惜しそうな光を引いて、扉が閉まった。真っ暗な部屋の中で、マリーは1人、ベッドの中で思う。
 リンがVOCALOIDになって、精神的に大人になっていく。いつかは、自分も肉体的にも精神的にも大人になるだろう。そして、リンよりずっと早くマリーは死ぬ。2人の間にあるヒトと機械という壁は、いかにも大きい。
 しかしそれでも、もはや確認するまでもなく、2人は親友なのだ。出会ったあの時から、決して揺るがない友達になったのだ。
 マリーは目を閉じる。そして、小さな自分にまで心の大切さを気づかせてくれたリンに、強く誓う。
 大きくなっても、大人になっても、お婆さんになっても、いつか死んでしまっても。
 どんなに遠くへ行っても、どれだけ遠くに離れても。
 「私はあなたの友達ですわ、リン」
 マリーは眠りに落ちていく。大きくなった自分が、今と変わらないリンやミク達と手を繋ぎ、ココロを通わせる姿を夢見て。




 
 ディスプレイに表示されている情報を睨みつけ、立川は視線をそのままに、冷めたコーヒーを啜った。実にうまくない、と胸中で独りごちる。
 秋山美鈴の作るVOCALOIDは、2種類ある。1つは、彼女が最初に手がけた『MEIKO』と『KAITO』を呼ぶ『VOCALOID』。この2人はニコツーの代名詞となるVOCALOID、その代表とも言える。
 そしてもう1種類が、『初音ミク』というアンドロイドにしては一風変わった名前を持つ、『KOKORO』プログラムを初めて使ったVOCALOID、『C.VOCALOID』である。頭のCは、公式では心あるアンドロイド――Character.Androidの頭文字ということになっている。実際は、『KOKORO』プログラムの製作者であるDr.クリプトンのイニシャルなのだが、そのことを知っている者は非常に少ない。
 その『C.VOCALOID』に、リンとレンが加わることとなった。鏡像という例えをよく使う2人に用意された名前は、『鏡音』。いい名前だと思った。
 デビューを6日後に控え、美鈴とリンとレンは忙しくあちらこちらに出かけている。VOCALOID一同も仕事をしにセンタードームへ出向いているため、事実上研究所は休日だった。その証拠、というわけでもないが、ヤンも今日は非番で、ルカと出かけている。厳つい面持ちの癖にニヤけたあの顔は、こちらも笑いを堪えるのが非常に難しかった。
 ともかく、立川は沈黙に包まれた研究所で1人、小さめのサブコンピューターと向かい合っている。アンドロイド達に異常はないし、美鈴の仕事も順調そうだ。今彼が調べているのは、仕事とは一切関係の無いことだった。
 Dr.クリプトン。稀代の天才秋山美鈴がようやく肩を並べることができた、恐るべき科学者のことである。何か理由があるわけではない。あえて言うとすれば、同じ男として芽生えた、その才能への興味か。
 美鈴がDr.クリプトンの研究所から持ち帰った情報を参照している。リンの袖につけられた小型コンピューターにも同じデータが入っているらしい。しかし、得られる情報は決して多くはなかった。そのほとんどがリンに関するデータで、Dr.クリプトン本人の情報はほとんどなかった。
 全くないわけではないが、そのほとんどが以前美鈴に聞いたものばかりだ。事故で娘と妻を亡くし、退院してからわずか6年でリンを作り上げた。設備も何もない状態からであることを考えると、それだけでも冗談のような才能だ。
 美鈴の言っていた通り、彼はその手腕の一切をリンとレンに使い、現代の娯楽用アンドロイドと比べても何の遜色もない、どころか高性能ですらあるアンドロイドを開発しながら、決して公表することはなかった。孤高の科学者になってからは、子供向けのおもちゃロボットを作っては町に売りに行き、生計を立てていたそうだ。しかし、開発費は安くない。常に金欠であったようで、金策に苦労したという記述が多々見られる。
 それでも、彼は決して諦めなかった。有機パーツをメインに使った、限りなく人に近いボディ。現代のコンピューターと同程度の性能を持つブレイン、『RIN』というアンドロイドシステム。これらをたったの6年で、作り上げてしまった。
 さらにそこから、『LEN』のシステムを作り上げ、リンのブレインに保存している。そして極めつけが、『KOKORO』プログラム。当時の機械技術が現代より高ければ、きっと彼の手だけで、リンは心を手に入れられていただろう。それほどまでに、プログラムは完璧な完成度であった。
 写真フォルダを開く。表示されたのは、若きDr.クリプトンと並んで映る、妻と思われる女性と、両親の手を取るリンと瓜二つの少女。髪は黒で瞳は茶色であり、リンより少し大人しそうな印象もある。性格まで似ているわけではないだろうし、恐らく彼の娘は優しくおしとやかだったのだろう。
 人を見かけで優しいだなんだと言えるようになった自分に驚きながら、立川は立ち上がった。コーヒーがなくなったのだ。
 改めてみると、ずいぶん物が増えたものだ。作業用ベッドと、サブコンピューターを人数分揃えているのもあるが、VOCALOID達が心を手に入れたことで、私物が増えたのだ。
 メイコは自分の私服をなぜかしまわず、下着以外は常に自分の作業用ベッドに放置している。リンが文句を言っても、聞く耳を持たないようだ。カイトもあの破壊力のあるハート柄エプロンを未だに持っているし、ミクはマリーやファンからの贈り物であるらしいぬいぐるみを、研究所の角に飾っている。毎日がぬいぐるみの雛祭りだ、とは、ルカの言葉である。綺麗に壇を作って並べられたそれを見ると、言い得て妙だと思う。
 研究所住まいの女性陣は、なぜか2階の狭い部屋で一緒に寝ている。私物が1階に下りるのは無理からぬことだが、こちらは仕事をしているのだ。少しは遠慮してほしいものだと、立川は常々感じていた。
 慣れない手つきで、コーヒーを淹れる。人には散々文句を言うが、自分で淹れることがほとんどなかった。思えば、そもそもコーヒーを飲むことが増えたのは、この研究所に来てからだ。嫌いではなかったが、好物というほどでもない。
 今では、なければ一日が始まらないほど、すっかり依存してしまっている。コーヒー中毒だと、ヤンに言われたこともあった。
 湯気の立つカップを口に当てて、1口だけ飲んでみた。やはり、リンやヤンが淹れてくれたコーヒーに比べると、ずいぶん味が落ちている。同じ方法でやっているはずなのに、一体彼らと何が違うのか。料理は科学よりずっと難しいと、立川は溜息をつく。
 コンピューターに戻って、再度Dr.クリプトンの残したファイルに目を通した。家族を亡くした後から、彼は一気に老け込んだようにも見える。よほど精神に堪えたのだろうか。無愛想なリンの隣で笑うDr.クリプトンは、とても悲しそうに映っていた。
 家族。立川は眉を寄せた。自分の両親と3人の兄は、皆医者であった。今もオーストラリア大陸にあるドワンゴの都市で、大きな病院を経営していることだろう。
 医師の道を捨てて科学者を志した立川を、両親は勘当した。家系で未来を決められることに強い抵抗を覚えていた立川は、それを堂々と受け止めた。兄達が必死に止めてきたが、それすらも突っぱねて、単身ニコツーにやってきたのだ。もう10年近く前の話だ。
 兄達は、今も自分を心配してくれている。手紙が届くのだ。いつも身を案じ、今からでも遅くない、戻ってこいと言ってくれる。返事は、一通も出したことがない。
 戻るべきかと悩んだ時もあった。科学者になったのはいいものの、己の力量を発揮することは叶わず、与えられる仕事は立川を奮起させてくれるようなものではなかった。自分を使い潰すような真似はしたくない。科学者を辞めてでも好きに生きた方がマシだと、立川は白衣を脱いだ。
 その後、ジャンクハンターにまで身を落とした。己の人生の失敗を悟ったが、あるいはそのおかげで、自分は今科学者として充実しているのかもしれない。
 あの日、相棒のヤンと、本当に偶然、Dr.クリプトンの研究所に踏み入れた。そこで見つけたアンドロイドが、ここまでの奇跡を抱えていたとは、あの時は思いもしなかった。
 もしリンと出会うことがなかったら、自分はどうなっていたのだろう。今もジャンクハンターをやっているのだろうか。
 たった1年。あまりにも多くのことがあったが、立川からしてみれば、科学者に戻ったというだけにすぎない。ただ、そこが己の力を十分発揮できる場所である、という所が大きかった。
 自分は、秋山美鈴のような天才ではない。才能だけでなんとかしてしまえる彼女を、羨ましいと思うこともない。だが、誰よりも努力をしている自信はあった。
 知識は力だ。技術もまた。己の力を、世界に認めさせたい。そのためのステージとしては、ここは最高の舞台といえる。
 立川自身の、我欲のため。それは今も変わらないが、今では少し、自分の気持ちに変化が起こっている。
 ヤン以外の人間と話すことが少なかった立川だが、アンドロイド一同やマリーと話すようになってから、だいぶ丸くなってきたように思う。少なくとも、開口一番切って捨てるようなことは、ほとんどしなくなった。
 無駄な会話は嫌いだったが、今ではくだらない談笑も悪くないと思える。こうして1人研究所に篭っているのが、少し寂しいとすら感じるほどだ。
 長年かけて築き上げた冷たく刺々しい氷が、ゆっくりと溶かされていく。そんな感覚だ。自分に限らず、美鈴も似たようなものだろう。孤独な科学者だった彼女も、今では1人の時間を作るほうが難しいのではないだろうか。
 怖気がするほど嫌いだったSMILOIDを初めとする娯楽用アンドロイドも、今は認めることができる。むしろ、VOCALOIDの連中には力になりたいと思うことすらある。
 自分も、孤独から救われた。他でもない、リンというアンドロイドの少女にだ。
 その少女が、片割れの少年と共に新たな世界へ旅立とうとしている。口には決して出さないが、リン達の支えになれるなら、どんなことでも力を惜しむつもりはなかった。先に死にゆく自分ができる、せめてもの恩返しだ。
 そしていつか、死に絶えるまえには、伝えたい。哀れな立川と相棒を堕落の闇から救ってくれた彼女に、たった一言。
 「ありがとう、か」
 口にしてみれば、やはりまだ気恥ずかしい。あまりに自分に似合わない言葉だ。1人苦笑し、肩をすくめる。コンピューターのキーを叩きながら、立川は決めた。 
 いつか、自分の氷が溶けた日がきたら、必ず伝えよう。リンと、自分を支えてくれる皆に。
 ココロからの、ありがとうを。




 「こんなん、俺にゃ似合わねぇよ」
 「黙って着てきなさい」
 ルカの長身を持ってしても見上げなければならないヤンの巨体を、試着室に押し込む。しぶしぶカーテンを閉めた恋人に、ルカは溜息をついた。
 ニコツーに数あるデパートの1つ、その紳士服フロアだ。リンとレンのデビューライブに備えて、ヤンの服を見繕いにきたのである。
 スーツなどで着飾る必要はないと思っている。そういった気品漂う舞台ではないことは知っているし、何より、ヤンにスーツは絶望的に似合わない。
 30代前半の男性服。心を得て間もないルカのセンスでも、選ぶのは難しかった。そこらのマネキンを指差して「これを全部」と言おうとしたが、なぜかヤンが全力で阻止してきた。まずいことは何もしていないと思うのだが。
 結局、同世代であろう女性店員を捕まえて、ヤンに似合う服を持ってこさせた。やはりヤンは嫌がっていたが、店員は笑顔で応じてくれ、なかなか悪くない印象を受けた。
 もぞもぞと着替える音が聞こえるが、そんなに多くない量だ。手間取るほどのものではないはずなのだが。
 「ヤン、まだかかりそうなの?」
 「いや、もう終わってんだけどよ」
 「……?」
 訝しげに、カーテンを少しだけ開けて、頭を突っ込む。そこには、鏡に映る自分を見ながらモジモジしている大男がいた。あまりに複雑な光景に、ルカは頬を引きつらせる。
 「なにしてるのかしら」
 「こんな服よ、俺には無理だろ」
 「あら、なんで? 似合ってると思うけれど」
 青いインナーシャツにパープルのチェックボタンシャツを重ね、黒い綿のパンツを合わせている。靴は彼が譲らなかった、黒の革ブーツだ。おかしくはない。実際の年より若く見えるし、かといって無理に若作りしている印象は与えない。
 「似合ってると思いません?」
 容赦なくカーテンを開け放ち、居合わせた店員に見せてみた。体を隠そうと試みて、すぐに諦めるヤンを上から下までしっかりと見てから、店員の女性は頷いた。
 「よくお似合いですよ」
 「そ、そうすか」
 照れ笑いなどしてみせる大男に、ルカも満足げに目を細めた。自分の恋人ながら、捨てた物ではない。
 褒められて悪い気はしないのだろう、ヤンもなんだかんだで嬉しそうに、
 「じゃあ、これもらおうかな」
 「インナーとトップス、あとボトムもお買い上げでよろしいでしょうか?」
 「う、うん。それで頼んます」
 「ありがとうございます」
 あくまでにこやかに、店員は一礼した。同時に、ヤンは煽てられると弱いので買い物には必ずついていこうと、ルカは胸中で決めた。
 会計を済ませ、2人はデパートのフードコードで一息入れることにした。といっても、ルカは疲れることもないし、飲食もしないのだが。人間同士の恋人のようでいたい、という彼女たっての願いを、ヤンが何気なく叶えてくれているのだ。
 コーラとドーナツなどと、子供のおやつのようなメニューを持ってきて、ヤンが席についた。買ったばかりの服が入った袋を見て、上機嫌だ。
 「いやー、いい買い物したぜ」
 「あら、最初は乗り気じゃなかったのに?」
 頬杖をついて言うと、ヤンは頬を掻いた。
 「……いや、服選びなんてめんどくせぇだけだと思ってたし、今でもあの服を俺が着ていいもんかって思っちゃいるんだぜ」
 「相変わらず、自信がないのね」
 呆れたように溜息をつく。自覚があるのか、ヤンも肩をすくめた。
 「ま、こんな身なりだしなぁ。図体ばっかでかいから、服なんてサイズが合ってて着れりゃなんでもいいと思ってたんだよ」
 「まったく。恋人がいる人間の吐く台詞じゃないわね」
 「ごもっともだと思うけどよ、ルカ。俺がファッションに精通してて、タッチーとか美鈴に進言してるって絵、想像できるか?」
 「……想像を拒否するわ」
 苦笑しつつ言うと、同意見らしい恋人は、ルカと似たような顔で笑った。コーラを炭酸など無いかのように一気飲みし、ドーナツを一口で半分ほどかじる。
 ふと、思い出したようにヤンが言った。
 「そういや、お前の服買ってなかったな」
 「いいわよ、私は美鈴に借りるわ。ミクの話だと、着もしないのにすごい量の服を持ってるって話だから」
 「主に着せるためだもんな、美鈴は。……でもダメだ。買いにいくぞ」
 半分残ったドーナツを一口で頬張ると、ヤンは立ち上がった。こちらの返事を待たずに、カップとトレーを専用の置き場に運んでいく。
 慌てて追いかけて、その袖を掴んだ。振り向いたヤンは、まだ口をもごもごさせている。
 「買いにって、さっきそれだけの服を買ったのよ? ライブチケットだって、美鈴が出すって言ってくれたのに、2枚分も自腹で出したのよね。もうお金ないんじゃないの? 無理しないでよ」
 「まだある。大丈夫だ、余計な心配すんなって」
 口元をハンカチで拭いながら、ヤンは言い切る。決して余裕があるわけではないはずだが、そこまで言われたら、ルカは黙るしかなかった。
 前を進みながら、ヤンはポケットに左手を突っ込み、エレベーターのボタンを押した。
 「リン達のデビューなんだ。気合入れて行きたいんだろ?」
 「それは……もちろんそうだけど」
 ありがたい、と素直に思う。だが、ヤンの生活や財布事情を知っているだけに、簡単に受け止めることができなかった。
 どうしても頷けないルカに、ヤンはエレベーターが何階に来ているかを示す数字を見上げながら、
 「着飾って映えるのは、俺よりルカなんだから、遠慮すんな」
 「そんなこと。ヤンだってさっきの服、本当に似合っていたわよ」
 「……さんきゅ。でもそうじゃねぇんだ。そういうことじゃねぇ」
 到着したエレベーターに乗り込む。中には2人しかいないので、ルカは遠慮なく訊ねる。
 「じゃあ、どういうこと? 謙虚なヤンも好きだけど、私はもう少し自信を持ってほしい。それと、私のために無茶もしないでほしいの」
 女性服売り場の階数を迷わず押して、ヤンは彼のももの辺りにある手すりに腰掛けた。溜息をついて、頭を掻く。
 「なんかいっつも主導権握られちまってるけどよ、――まぁ恋愛に関しては消極的すぎる俺のせいなんだけどな。でもな、ルカ。微妙に俺の気持ちを汲めてない時があるよな。今とか」
 「……納得しかねるわ」
 「だろうな。納得できねぇよ、理解してねぇんだから。まぁ、心手に入れてそんなに経ってないし、俺みたいなのが彼氏だから無理もないんだろうけどな」
 はっきり言わないヤンに、ルカは詰め寄った。すぐ目の前に行って、腰掛けているヤンの顔を見上げる。
 言葉を使わず、ルカは視線で訴えた。何が不満なのか、正直に言えと。説明も必要なく伝わって、ヤンはわずかに苦笑いを浮かべ、ルカの頭に手を置く。
 「一回しか言わねぇぞ」
 「……構わないわ。それで納得できるなら」
 エレベーターが停止する時の、独特の振動が体を包む。止まりきる前に、ヤンは扉の前に移動しながら、小さな、しかし聞こえる声で言った。
 「惚れた女にゃ、輝いてほしいもんなんだ」
 「……うっ……」
 普段は冷静なフリをしていても、本当は感情の起伏が激しいルカだ。もし人間やリンと同じボディだったなら、きっと今頃顔を真っ赤にしていたことだろう。そうでなくてよかったと、心から思った。
 到着したエレベーターの扉が開く。先を行くヤンの腕に、ルカはそっと寄り添った。すれ違った老婆が、あらあらと微笑ましそうに呟くのが聞こえる。
 「ねぇヤン」
 「ん?」
 「もう一度言って」
 「……嫌だね」
 笑いながら、ヤンは首を横に振った。ルカも思わず、破顔する。
 「いじわるね」
 「お互い様だろ。たまにゃ仕返しさせろよ」
 女性服売り場という往来の中で、2人は笑い合った。さすがに公共の場なので、それ以上くっつくこともなく、横に並んで歩く。
 見回してみれば、1つの大きな店というよりは、色々な店舗が並んでいる、ショッピングモールのような雰囲気であることが分かった。とりあえず1周して、どこに入るか決めることにする。
 横を歩くヤンが、色とりどりの女性服にキョロキョロしながらも、デパートの喧騒にかき消されない声で言った。
 「それにしても、意外だったよ。ルカはVOCALOIDのこと嫌ってると思ってたから、あいつらのライブにも行かないと思ってたんだけどな」
 「あら、心外ね。私はVOCALOIDが嫌いなわけじゃないわ。私がなるのが嫌だってだけで」
 「なんだ、そうだったのか」
 わずかな安堵を滲ませて、ヤンは納得したように頷いた。それに、とルカは続ける。
 「あの子達には、感謝してもしきれないもの。晴れ舞台を見に行くくらいのことは、してあげて当たり前だと思うのよ」
 「あー、なるほどな。そりゃ同感だわ。あいつらのおかげで定職につけてるわけだしな」
 「なんだ、感謝するところはそこなの?」
 からかうように、ヤンの顔を覗き込む。すると、彼は笑いながら答えた。
 「それだけじゃねぇよ、もちろんさ。タッチーがやる気を取り戻してくれたのも、美鈴とかアンドロイドの連中と仲良くなれたのも、リンとレンのおかげだ」
 「たくさんの出会いをくれたものね、あの子達は」
 「だな。ルカにも、本当の意味で出会うことができた」
 突然真面目な顔で言うものだから、わずかな間の後、ルカは盛大に吹き出してしまった。すれ違った人が、思わず振り向いている。
 困惑したヤンが、怪訝そうな顔で聞いてきた。
 「な、なんだよ……笑うとこじゃねぇだろ」
 「だって、ヤンったら突然真顔で、似合わない台詞を言うんだもの」
 「おま、お前! 人が割りと覚悟決めて言ったっつーのに!」
 小突いてくるヤンを適当にあしらいながら、ルカは一通り笑いつくした。こんなに声に出して笑ったのは初めてだったが、とてもいい気分だ。ヤンは苦い顔をしているが。
 いじけてしまった恋人の手を取って、ルカは微笑む。
 「私だって、同じ気持ちよ。あなたとやっと心を通わせられて、本当に幸せ」
 「……」
 「やっと、あなたに出会えた。愛というものを知ることができた。それが本当に嬉しい」
 手を引いて、ルカは歩き出した。引っ張られながらも、ヤンは笑っていた。
 「だから、リンとレンには沢山のお礼をしなきゃいけないわ。あなたと一緒に、ずっと」
 「……んだな」
 簡単な返事。だが、それだけで伝わった。お互いの気持ちが、十分すぎるほどに通じた。
 気づけば、フロアを一周していたらしい。入りたい店はちゃっかり決めていたので、ルカはそちらを指差した。
 「そのためにも、まずはしっかり着飾らないといけないわね。何を着ようかしら。動きやすい方がいいのよね。あなたがいいって言ったんだから、手加減しないわよ?」
 「おう、どんとこい!」
 胸を張って、ヤンが答えた。彼の手を引いて先導しながら、ルカは微笑む。
 リンとレンは、1人でも多くの人と心を通わせるために、沢山の人の心に触れるために歌うという。小さな体からは想像もできないほど大きな目標だ。
 叶えられる。ルカは少しも疑うことなくそう思う。彼女達は、どんな奇跡も起こせてしまう、強い力を持っているのだ。
 ルカは何を伝えられるだろう。きっと、多くの人に何かを伝えることはできない。だが、彼女はそのことに負い目を感じることはなかった。
 ただ1人のためだけに。それでいい。大きな目標もない。それでいいのだ。小さな幸せを共有することこそが、アンドロイドであるルカの心なのだから。
 リンとレンが届けてくれた、かけがえのない、ルカのココロのあり方なのだから。



 あと3日。将盆は年甲斐もなく心を躍らせていることを、決して表には出さずに楽しんでいた。
 リンとレンが、VOCALOIDとしてデビューする。そのライブに、将盆は招待されていた。招待主は姪の美鈴。VIP席で一緒にどうか、とチケットを2枚も用意してくれたのだ。
 一度は断ったのだが、リンからどうしても受け取ってくれと電話越しに懇願されては、受け取らないわけにはいかない。ありがたく、頂戴することにしたのだ。
 あれだけ拒んでいたリンが、VOCALOIDになる。にわかには信じられなかったが、美鈴と2人で語り明かしたあの夜、リンはとても成長したのだと知った。
 娘のような存在であるリンの晴れ舞台。これを見れることが、嬉しくないわけがなかった。
 もらったチケットは2枚。誰か適当に誘ってくれと言われたが、この枚数が困った。正直、1枚の方がありがたかった。
 「ショボン、ガンガン強いのくれ」
 「もう止めておきなさい、ドクオ君」
 「うるせぇ止めるな! 今日は聞かねぇぜ、俺はノンストップ暴走列車だ!」
 「だっさ、涙が出るほどださいお。チケット取れなくてキレる気持ちは分かるけど、そのネームセンスだけは理解できないししたくもないお」
 「ちくしょう!」
 グラスを舐め回すドクオに呆れて、仕方なく弱めのカクテルを作る。酒の味が分かる男ではないので、文句は言わないだろう。雰囲気を楽しんでくれているのだから、上客といえば上客だ。
 だが、チケットを取り逃すたびに自棄酒をするのは、勘弁願いたい。
 「リンちゃんがまさかのVOCALOIDデビューって聞いてよー……。ソッコーでホームページにアクセスしてよー。チケットの前売りページ見たらよー! 『申し訳ありませんが、完売しました』だってよー!!」
 「本内君。ブーンが聞いたところによると、デビュー記念で、ミクちゃんとメイコちゃんのデュオもあるって話だお」
 「知ってます! つーか本命はそっちです!! ちっくしょぉぉぉっ!」
 ドクオのライブにかけた情熱は、かなり凄まじい。ミクの熱狂的なファンであることもさることながら、メイコやカイトのライブにもよく出かけている。相棒であるブーンが1人でバーボンハウスに来る時は、大抵ドクオが1人でセンタードームに行っている。
 他に趣味がないのかというほど、本内拓男という人間はVOCALOIDに魂をかけている。悪くない生き様だと、将盆は思っていた。
 それだけに、今の姿はいたたまれない。ブーンがいる以上、チケットは2枚とも手放すことになってしまう。リンには後で謝ることにしようと、将盆は溜息混じりに切り出した。
 「ドクオ君。どうしても行きたいなら、これをあげよう」
 「……?」
 意気地なくカウンターに突っ伏していたドクオが、顔を上げる。差し出された2枚のチケットを前に、ブーン共々顔色を変えた。
 「こ、これは……! VIPカラーチケット!」
 「すげぇお、生で見たのは初めてだお! ショボン、これどこで手に入れたんだお、1枚あたりの値段がぶっ飛んでるのに」
 目をぱちくりさせながら、ブーンが言った。ドクオは手を震わせて、まるで神々しい物を前にした信者のようになっている。
 「美鈴ちゃんがくれたんだ。よかったら知り合いとどうか、とね。本当は1枚は返そうと思っていたんだけれど、君達が2人で行ってきなさい」
 「え、でもそれじゃあショボンが」
 震えていた手を止めて、ドクオがこちらを見た。チケットは、受け取っていない。
 「ショボンは、行かないのか?」
 「2枚しかない。もう1枚くれなんて、図々しい事は言えない。なに、また機会はあるさ」
 「……でも、なぁ」
 もらわない方向で、ドクオは揺れている。どんなに熱狂的であっても、常識はわきまえている青年だ。親友のブーンも何も言わず、チケットに触れようともしない。
 出会った頃に比べたら、ずいぶんと大人になってしまったのだなと、将盆は一抹の寂しさを覚えつつ、頬を緩めた。
 「リンちゃんとレン君は、特別だ。あの子達はアンドロイド達の中で、誰よりも強い『魂』を持っている。彼女達はそれを自覚しているが、決して驕らない。それどころか、舞台から皆に届けたいと願っているそうだ。
 ……これからのニコツーを、世界を支える君達に、リンちゃんとレン君の『魂』の歌を、受け取ってきてほしい。こんな老いぼれなんかより、君達が聞くべきなんだ」
 「……そうか。いや、でもやっぱ」
 「ドクオ君、君のVOCALOIDにかける情熱は、いつかミクちゃん達を助けるものになるかもしれない。絶やしてはいけない炎だよ」
 「……」
 手を伸ばしては引っ込めるドクオに、わずかなじれったさを感じる。だが、将盆はじっと待った。決めるべきは、本人だ。
 しかし、こちらの気持ちを知ってか知らずか、身を乗り出したブーンが、2枚とも奪い取ってしまった。驚いて振り向くドクオに1枚、差し出す。
 「いつまでやってんだお。もらっちまえお」
 「えぇ、でもさぁ」
 「行きたいってわめいてたんだから、今更遠慮する理由がないお。黙ってもらって、楽しんでくればいいお」
 「そうさ。君達で楽しんでくれれば、僕は満足だ」
 同意して、頷く。すると、こちらを向いたブーンが、もう1枚のチケットを突きつけてきた。
 「人事みたいに言ってないで、ショボンも行ってこいお」
 「……」
 驚いて言葉をなくしていると、相変わらずの細い目を笑みに曲げて、ブーンはカラカラと笑った。
 「ショボン、ブーンをなめてもらっては困るお。本当はショボンも行きたいんだなんてこと、お見通しだお」
 「……いや、行きたいのは確かに事実だがね」
 「だったら行ってこいお。VIP席にドクオ連れてくなら、それ相応の覚悟はいるお。ブーンは正直勘弁願いたいお」
 強がりには、聞こえない。ブーンは心から、チケットを勧めてくれている。友人として、これほど嬉しいことはない。素直に受け取って、頭を下げる。
 「……ありがとう」
 「なんでお礼を言うんだお。元はショボンのチケットなんだから、お礼を言うのはこっちだお。気遣ってくれてサンキューだお」
 「お、俺も! マジでありがとう、まさかVIP席だなんて、感動しすぎて死ぬわ!」
 「おっおっ。死ぬならライブ終わってからにしろお。秋山博士からの香典が領収書になるお」
 笑い合ってから、やはり気がかりで、将盆は申し訳なさそうに尋ねる。
 「しかし、本当にいいのかい? ブーン君も行きたかったんじゃ」
 「……気にすんなお」
 頬杖をついて、ブーンは笑った。
 「ブーンは大丈夫だお」
 「……ブーン、やっぱ俺も……」
 カウンターに、ドクオがチケットを置く。受け取りづらいのは彼も同じのようで、名残惜しげにチケットを見つめながらも、決別するかのように言った。
 「ショボン、わりぃ、俺も行かない。こいつだけ我慢させるなんて、できねぇよ」
 「……そうか」
 「え、ちょ」
 将盆も、チケットを置く。立ち上がったブーンを、手で制した。
 「僕らは友人だ。君が1人我慢するというのなら、僕らもまた。一心同体の親友とは、そういうものだ」
 「誰か1人でもつまんねぇ思いするなら、こっちから願い下げだぜ」
 同意して、ドクオも頷く。そして、置かれた寂しげなチケットから、そっと視線を外した。まるで、恋人を愛しながらも突き放す男のように。
 「ここで飲んでるのも、楽しいからな」
 「あぁ、僕も君達なら、いつだって歓迎だ」
 微笑んで言うと、ドクオも頬を緩めて、カクテルグラスを傾けた。
 しかし、今も困惑気味なブーンが、おろおろと手を動かしながら、躊躇いがちに口を開いた。
 「あの、申し訳ないんだけど、別にブーンは行かないなんて言ってないお」
 「……え?」
 思わず漏れた声が、ドクオと重なる。言葉を選ぶように、ブーンは細い目を宙に漂わせた。
 「だから、ブーンもライブには行くんだお。VIP席じゃないけど」
 「チケット取れてたのか?」
 呆けながらドクオが聞くと、ブーンは首を横に振った。
 「いや、ブーンは取れてないお」
 「じゃあ、どうやって?」
 今度は将盆が尋ねた。しかし、ブーンは苦笑するばかりで、答えてくれなかった。代わりというわけではないだろうが、ドクオの表情がみるみるどす黒いものに変わっていく。
 「ブーン・タイレル……! 貴様、まさか!!」
 「ふっふ、残念だったお、本内拓男君。君と騒ぐライブも楽しいが、愛する者と過ごすライブもまた、格別なのだお」
 ようやく合点がいった。ブーンには恋人がいたのだ。彼女がチケットを2枚、用意してくれたのだろう。そういうことなら、チケットは遠慮なく頂ける。ドクオはすでに、懐にしまっていた。
 「一瞬でも遠慮した俺が馬鹿だった」
 「だから、ブーンは行かないなんて一言も言ってないお。勝手に勘違いしたのはショボンとドクオだお」
 「反論の余地もないね」
 ドクオが一気飲みしたカクテルのグラスを下げつつ、将盆は肩をすくめた。
 しっかりとチケットをしまったドクオが、満足そうな顔をする。
 「いやー、しかしVIP席か。ステージを一望できるし、設備がしっかりしてるから臨場感たっぷりに音も聞けるっていうし、たまんねーな」
 「みんなで騒げないのが難点だお」
 「大丈夫、VIP席にはきっとマリアちゃんがいる。あの子なら一緒にはしゃいでくれる」
 握りこぶしを固めて、ドクオが宣言した。相方は10歳の少女だが、構わずしっかりと応援はするつもりらしい。呆れて言葉も出ないブーンに、将盆は笑う。
 「度がすぎたら、僕が止めるさ」
 「遠慮なくやっちまってくれお」
 「死なない程度で頼む!」
 笑い声が、バーボンハウスに響いた。まったく。愉快な青年達だ。彼らと友人になれたことを、将盆は心から嬉しく思う。
 「楽しみだお、あの2人はショボン一押しの子だから」
 頭の後ろで手を組んで、ブーンが言う。将盆は深く頷いて、にっこりと優しく微笑んで、答えた。
 「あぁ、とても素晴らしいコンサートになるさ。リンちゃんとレン君は――特別なんだ。本当に、特別なんだよ」
 年老い疲れた自分の心を、解き放ってくれた。リンは知らないだろうが、将盆をも救ってくれていた。いつか話せる時がきたら、お礼を言おうと思っている。その時は、もう近いとも。
 リンとレンが、世界に飛び立つ初舞台。友とそれを見届けられることに、将盆はやはり、ココロを躍らせるのだった。




 リンとレンのライブを翌日に控え、彼女らの前に歌うことになっているメイコとミクは、何度目かのリハーサルを終えて、下座で循環液調整ドリンクを飲んでいた。体を動かした後は、こうして軽くメンテナンスをするのが日常だ。
 一息で飲み干すメイコと違い、ミクはストローでゆっくりと飲んでいる。特にそれで効果が変わるわけではなく、性格が出ているだけである。
 「メイコさん、調子良さそうですね」
 ストローから口を離して、ミクが言った。空になったボトルをアンプの上に置いて、メイコは頷く。
 「そうね、いい感じ。ミクは?」
 「私も、悪くないです」
 初音ミクというVOCALOIDは、メイコやカイトより歌のバリエーションが多い。バラードもポップスも歌い上げる、万能型と言えるタイプだ。ロックやメタルは不得手としており、そういった持ち歌も今のところはない。
 今回は、2人で歌うことになっている。持ち歌とは別に、トラボルタが用意してくれた。メイコとミクが2人とも満足して歌えるように、ポップス調でありながら力強さのある歌だ。
 しかし、明日の主役はあくまで、リンとレン。そのことを承知しているからこそ、2人はあえて、前座として力を尽くすことを決めている。
 「あの子達がしっかり歌えるようなテンションを作らなきゃいけないってのは、中々難しいわね」
 「そうですね。低すぎるのはもちろんだけど、高すぎても、リンとレンにはプレッシャーになっちゃうから」
 ようやく調整ドリンクを飲み終えて、ミクは律儀にスタッフにボトルを渡す。ついでにメイコも、自分のボトルを同じスタッフに放った。慌てて掴むスタッフを尻目に、メイコは壁に寄りかかる。
 「心がない頃は、プログラミングされた通りに歌ってただけだから、私らで調整する必要はなかったんだけどねぇ」
 「でも、今からそうするって言われたら嫌じゃないですか?」
 「絶対嫌ね」
 即答すると、ミクが笑った。彼女は生まれた時から心があるアンドロイドだ。自分やカイトのようにプログラミングで歌った経験がない。だからこそ、提示された通りにしか歌えないと言われたら、やはり拒否するだろう。
 心あっての歌なのだ。それに気づけた時、メイコのロックは彼女自身が自覚するほど、大きく変化した。進化と言ってもいいだろう。
 気づかせてくれた少年と少女が、後輩として同じ舞台に立つ。絶対に成功させたいと思うのは、至極当然のことだ。
 「あいつらには、楽しんでもらわないとね」
 「うん」
 気合は十分だ。歌の調子もいい。後は、本番を待つだけ。
 ライブ全体の流れを確認して、2人はメンテナンスルームへと向かった。何があるわけでもない、VOCALOIDにとって楽屋のようなものだ。
 その途中で、妙に青い顔をしているスタッフを見つけた。携帯端末を片手に、はっきりと絶望を浮かべている。躊躇わず、メイコは声をかけた。
 「どうしたのよ、酷い顔して」
 「あ、メイコさん」
 心を手にしてしばらくはぎこちなさがあったスタッフも、今では普通に接することができる。若い男のスタッフは、震える唇で言った。
 「ちょっと、苦情が入りまして」
 「え? 私達のライブにですか?」
 驚いてミクが尋ねると、スタッフは首を横に振った。
 「いえ、今までのライブに対してではなく」
 「……明日の?」
 「えぇ」
 苦しげに、スタッフが頷く。眉を寄せて、メイコは再び聞く。
 「どんな苦情よ?」
 「……それが、女性からなのですが……。カイトさんを出さないのはなぜだ、と。彼を仲間はずれにするのは許さない、と言っていまして。……僕の妹なんですけどね」
 「妹さんが、カイトのファンなんだ?」
 「それはもう、熱狂的な。ファンクラブに入ってるんですけど、それを代表しての苦情だそうです。かなり大規模なファンクラブですから、本当だとしたら、参ったなぁ」
 重々しく溜息を吐き出す、若いスタッフ。気の毒そうに、ミクがその背をさすった。しかし、メイコにはそこまで重大な問題には思えない。
 「呼べばいいじゃない」
 「……え?」
 「いや、カイト。呼びゃくるわよ、あいつ」
 さも当然とばかりに言うが、ミクはそれに呆れたような顔をした。
 「そんな簡単に。もう流れも決まっちゃってるじゃないですか……」
 「変えりゃいいのよアドリブで。私らなら、なんとかなるっしょ」
 すっぱりと言い切ると、ミクはしばらく思考してから、彼女らしくにっこりと笑った。
 「それもそうですね」
 「あんたは話が分かるから、助かるわ」
 満足して、メイコはスタッフの肩をバシバシと叩く。
 「そういうわけで、カイトを呼ぶわ。これで黙らせられるでしょ、あんたの妹」
 「いや、しかし……。チケットがもう完売でして、席も余っていません。ファンクラブの苦情署名は、1000を超えているんですよ。キャンセル待ちもできないんです」
 「……面倒くさいファンを抱えてるわね、カイトは」
 「ハンサムだからね」
 確かに顔立ちはいいが、そこまで熱狂されても正直迷惑だなと、メイコは眉を寄せた。ミクも同じ気持ちなのだろう、自分にはいらないと表情が語っている。
 だが、確かに席を確保できないのは問題だ。センタードームは広いが、VOCALOIDライブとなると、いつも満席になり、キャンセルはまずないのが現状である。
 しかし、メイコは諦めない。歌うのは自分達だ。美鈴の力もある。ビリー会長に直談判だってできる立場だ。
 「電話貸しなさい」
 うな垂れるスタッフに、手を突き出す。彼はしばらく戸惑った後、携帯端末を渡してきた。着信履歴から迷わず妹の番号を選び、通信する。
 数回呼び出し音が鳴ってから、応答があった。表示された空中映像に映る10代の若い女性の表情は、憤怒のそれである。こちらの顔も見ずに、さっそくヒステリーだ。
 『お兄ちゃん!? やっとかけてきた、カイト様は出してもらえるんでしょうね! 出してくれなかったら、私達はなんとしても明日のライブを阻止するわよ!』
 「いい度胸してんじゃないの。やれるもんならやってみなさいよ」
 ケンカ腰にはケンカ腰で。それがメイコの流儀である。例えそれがメイコに向けられたものでなくても、知ったことではない。
 空中映像越しに、妹は困惑の声を上げる。
 『え、え? 誰? お兄ちゃんは?』
 「あんたの兄さんは今、あんたらのわがままで辟易してるわよ」
 『なによ、誰なのよあなた! センタードームのスタッフね。そんなちゃらちゃらした格好して、名前を言いなさい! 上司に言いつけてやるんだから!!』
 「そう、楽しみね。私はメイコよ。VOCALOID、MEIKO。さて、誰に言いつけてくれるのかしら?」
 『うぇっ!? 嘘!?』
 頓狂な声を上げる妹を置いて、メイコは早々に本題を切り出す。これだけ確認を取れれば、後は彼女がどうなろうとどうでもいいのだ。
 「単刀直入に聞くわよ。あんた、カイトが来るなら立ち見でもいい?」 
 『え、本物? 嘘でしょ? でも確かに、メイコの格好よね。ちょっと、パンフレット……。顔が本物かどうか』
 「……ごちゃごちゃ言ってないで、答えなさいよ!」
 凄まじい形相で、怒鳴りつける。自分の顔を覚えてもらえていない八つ当たりもあった。ディスプレイの向こうにいるミクは、メイコの気持ちに気づいているらしく、苦笑いだ。
 身を縮こまらせてから、妹は必死になって答えた。まるで親に叱られる子供だ。
 『ごごごごめんなさい! カイト様が見られるなら、立ち見でも寒中水泳しながらでも全然構いません!』
 「よろしい」
 情け容赦なく端末を切断し、次いで、研究所のカイトに連絡する。スタッフの携帯端末だが、メイコは一切気にしない。
 表示されたカイトの顔には、知らない番号からの連絡であるため、接客用の笑顔を浮かべられていた。しかし、メイコの顔を見た瞬間に、怪訝そうな顔に変わる。
 『……メイコ?』
 「なによその顔」
 「カイトさん、やっほー」
 こちらに回り込んできて、ミクが手など振っている。疑いを込めた顔をそのままに、カイトは手を振り返した。
 『……嫌な予感しかしないんだけど?』
 「別に嫌なことじゃないわよ。あんた、明日のライブに来なさい」
 『もちろん行くつもりだよ。VIP席でDr.秋山達と一緒に見させてもら』
 「何言ってんのよ。カイトも歌うのよ。これは決定事項」
 あんぐりと口をあけて、数秒の間の後、カイトは先ほどの妹と同レベルの、頓狂な声を上げた。
 『なんだって?』
 「あんたも歌うのよ。私らと一緒に。リンとレンのデビューライブで、あんただけ歌わないなんてあり得ないわよね。拒むような酷いこと、私のカイトちゃんはしないって信じてるわよ」
 『無茶苦茶だなぁ……。歌いたいのは山々だけど、もう明日なんだよ?』
 「時間調整と歌の用意、追加のチケットは、こっちでなんとかしますよ、私達センタードームにいますから」
 ミクまでが乗り気であることを知って、カイトは大げさに溜息をついた。そして、参ったと両手を挙げる。
 『まったく、大した行動力だよ。わかった、ライブの流れとチケットはよろしく。ただ、歌はこっちで任せてくれないかな? 君達の歌は、僕じゃとても歌えない』
 「あら、あてがあるの?」
 尋ねると、カイトは彼らしくない、思わせぶりな笑みを浮かべて見せた。
 『僕は超売れっ子作曲家の親友なんだ』
 「……なるほどね。でも、トラボルタでも一日じゃ厳しくない?」
 『実は、何日か前にいい歌を思いついたって言っててね。僕向けの歌らしい。そろそろ出来上がってる頃だと思う』
 なんだかんだで、カイトもやる気である。メイコとミクは、その事に満足して頷いた。
 『Dr.秋山には、僕から話しておくから』
 「お願いね」
 「ばいばい、カイトさん」
 手を振るミクに微笑んで、カイトが通信を切った。端末をスタッフに返しながら、メイコは肩をすくめる。
 「そういうことだから」
 「え、あ……」
 当事者だというのに、いつの間にやら状況から置いていかれていた青年は、数秒の間を置いてから、深く深く頭を下げた。
 「あ、ありがとうございます!」
 「ちょっと生意気なのが気に入らないけど、どんなファンでも歌を聴きたいってんなら聴かせるまでよ。徹底的にね」
 「それが、私達VOCALOIDですから」
 揃って言い切ると、スタッフは頭を上げたあと、もう一度一礼した。
 「俺、ここのスタッフでよかったって、本当に思います!」
 「はいはい。分かったから、さっさとカイトの参加を他の奴らに教えてきなさいよ」
 「突然で大変だと思うけど、がんばってくださいね」
 「は、はい!」
 親指を立てるミクに、青年ははっきりと返事をして、走り去っていった。その後姿が曲がり角に消えたところで、メイコは腰に両手を当てた。
 「さてと。後は立ち見チケットのことね」
 「立ち見客は、前代未聞ですね。会長さんが嫌がってたから」
 「会長に直談判。絶対に黙らせるわよ、ミク」
 「了解ですっ!」
 キリッとした笑顔で敬礼などしてみせるミクに、メイコは似たような強気な笑みを返した。2人して、歩き出す。目指すは、ビリー会長が仕事に忙殺されているだろう、会長室。
 カイトが来る。VOCALOIDが全員揃う。今までにない最高のライブが、すぐそこにある。メイコは高まるココロの鼓動を、熱く強く感じていた。
 



 やってくれた。会長室にやってきたミクとメイコを前に、ビリー会長と最後の打ち合わせをしていた美鈴は頭を抱えた。
 ライブを前日に控え、最終調整に入ったこの段階で、カイトの参加。ライブの流れは大幅に変わるし、アドリブだけではカバーしきれない部分も当然出てくるだろう。
 さらに、立見席分のチケットを、最低1000枚用意してほしいなどと言い出した始末。気合十分なのは嬉しいことだが、あまりにも急すぎる。対面のビリーも、腕組みをして唸っていた。
 「できないことないでしょ? じゃあやればいいのよ。そうすりゃなんとかなるんだから」
 「簡単に言うがね」
 苛立ちを滲ませながら、ビリーは腕を解く。
 「明日に控えたライブの予定を、突然変更など、容易く決められることではないんだよ」
 「中身の流れなら、私らでなんとかするってば」
 「しかしな、メイコ……」
 相手が誰であろうと強気なメイコを、美鈴は制する。
 「あぁ、君の言い分も分かる。確かに今回、カイトがライブに参加しないという決定に納得いかないファンがいるだろうことは、予想できていた。だがこれは、彼のために決めたことでもあるんだ」
 「どういうことです?」
 今にも身を乗り出しそうなメイコを押さえて、ミク。美鈴はビリーに一言断ってから、煙草に火をつけた。
 「カイトは、バラードばかり歌っているだろう? 今回のライブはあくまでポップス路線、つまり明るい歌で盛り上げたいんだ。彼の雰囲気には合わない。あぁ、彼が暗いと言ってるわけじゃなくてだな……。
 あぁ、メイコ。頼むからそんな顔をしないでくれ。私は決してカイトをのけ者にしようとか、そんなことを考えてるわけじゃないんだよ。適材適所というやつなんだ」
 「……」
 できるだけ納得しやすい説得材料を選んだつもりだったが、それでもメイコは憮然としたまま。ミクもどこか悲しげで、理解はすれど納得はできないといった具合だった。
 葉巻を咥えて火をつけ、ビリーは紫煙を吐き出した。何も言わず、昇る煙を眺めている。彼がこういう仕草をするときは、思考にふけっている証拠だ。仕方なく、美鈴は続けた。
 「追加のチケットだってそうだ。確かに、センタードームの移動スペースは広いから、立ち見は可能だよ。そこは何の問題もない。
 だが、今からチケットを刷って配布するなんて、とても間に合わない。インターネットを使って販売しても、チケットが届くのは最低で2日後。やれるとしたら当日販売だが、どうやって苦情を入れてきたファンだけに手渡すつもりだ?」
 「……そうね。どうする? ミク」
 「えぇ!? 無茶振りだなぁ」
 ぼやきながらも、ミクは唇に人差し指を当てて、考えた。数十秒で、彼女の思考はまとまったようだ。
 「……あのスタッフさんの妹さんに、手渡してもらうとか」 
 「あー、それもありねぇ。てか、いっそのこと、そいつらライブの1時間くらい前に集めてさ、カイトに手渡させたら?」
 「おぉ、それは喜んでもらえそうですね」
 手を叩いて感激するミクに、メイコがウィンクなどしてみせている。しかし、美鈴とビリーは同時に同じ不安を浮かべていた。先に口を開いたのは、ビリーだった。
 「……カイトに危険が迫る可能性がある。彼の故障はなんとしても避けなければいけない」
 「あぁ、私も同じ意見だ。カイトが危ない目に合うかもしれないなら、私は反対だ」
 「別に壊れやしないわよ。あいつ世渡り上手だしね」
 「……確かに」
 その点は、美鈴も同意せざるを得なかった。カイトはアンドロイド勢の中で、一番口達者だ。MCが一番好評なのも、彼である。
 ミクとメイコの顔を見る。2人とも、引く気はないらしい。やれやれと、美鈴は溜息をついた。
 「会長、チケット1000枚、手配をお願いできますか?」
 「秋山博士、本気かね?」
 目を丸くするビリーに、美鈴は頷いた。
 「こうなると、彼女達はテコでも動きません。なに、私も協力しますよ。念のため、チケットを手渡す臨時イベントの間は、うちの専属スタッフをボディガードとしてつけます。大丈夫、問題はないでしょう」
 「……テコでも動かんのは、君の方だろうに」
 呆れて言うビリーに、美鈴は苦笑した。
 「ごもっとも。ライブの流れは、まぁ現場のスタッフと彼女達に任せましょう。彼らの方が、私達よりよっぽどうまくやる」
 「任せてよ。最高のライブにしてあげるからさ」
 「がんばります!」
 2人の宣言に、ビリーは仕方ない、と溜息をついた。
 「君達には感服する。アンドロイドでありながら、人間のために歌う、そのことに全力を尽くしてくれる。私は君達をビジネスの道具としか見ていなかったことを、深く反省しているよ。
 ……いいだろう。今回のライブ、私はこれ以上干渉しない。現場のスタッフと、秋山博士。そして、君達VOCALOIDの手で、今までにないステージを作り上げてみなさい」
 その言葉を聴くと、メイコは満面の笑みで、ミクは律儀に一礼してから、駆け足で会長室を出て行った。一刻も早く準備に取りかかりたいのだろう。
 扉が閉まって、美鈴はまず、ビリーに頭を下げた。
 「会長、わがままを聞いてもらって、本当にありがとうございます」
 「まったく、君達にはいつも驚かされる」
 高級そうな葉巻を咥えながら、ビリーは天井を仰いだ。ほんの少し楽しげに、口元を緩めている。
 頭を上げて、美鈴も紫煙を吸って、吐き出す。
 「私は、驚かされる側ですよ。特に、リンが――心を持つ彼らが現れてからは。心あるアンドロイドが舞台に立つ。一時は不安もありましたが、思った以上に受け入れられて」
 「……心、か」
 ビリーは深く煙を吐き出しながら、呟いた。白い煙は、宙に昇って消えていく。
 「VOCALOIDのライブがあまりにも成功しすぎて、私はいつからか、彼女達を商売道具としてしか見ていなかったのかもしれないな。君の研究所で、初めてメイコの歌を聴いた時の感動を、忘れてしまっていた。あのままでは、本当に自分が目指したものを、見失っていたかもしれないな」
 「流行自殺を真の意味で止めて、再び世界に笑顔を取り戻す。その出発点がセンタードームだと、会長は仰っていましたね」
 「覚えていたのかね。さすがは秋山博士、記憶力も抜群だ」
 笑いながら、ビリーは言った。
 「父がセンタードームを作り、娯楽都市としてニコツーを発展させても、流行自殺は止む気配を見せなかった。幼かった私の友人に、親を亡くした子が何人もいた。10に届かぬ年で……自らの命を絶った友もいたほどだ。君でも想像は難しいだろう? 昨日は笑っていた友達が、次の日には死体になっている。それが日常だった時があった。
 友の死を目の前にいして、私は誓った。いつか必ず、皆を流行自殺から救ってみせると。豪邸住まいで苦労なく暮らしてきた私であっても、思うところはあったのだよ。
 ……君が学会から離れ、単身で娯楽用アンドロイドの研究を始めたと聞いて、メイコを見せてもらい――私は確信した。これこそが、人々を絶望から真に救う存在だと」
 懐かしむように天井を見上げるビリーの目には、何が映っていたのだろうか。自分と同じものが見えているのだろうなと、美鈴は思った。
 「VOCALOIDに心を吹き込んだアンドロイド。彼女が我らと同じ道を歩いてくれると申し出てくれた時、私はようやくスタート地点に立った気がしたよ」
 「同じ気持ちです。私も、リンとレンが頷いてくれた時になって初めて、ようやく大きな何かが動き始めたんだと思いました」 
 頷くと、ビリーは一変真顔になって、葉巻の火を消した。
 「しかし、秋山博士。これは茨の道かもしれない。アンドロイドに心がある。これはきっと、賛同以外の反響も呼ぶことだろう。『KOKORO』プログラムを狙う輩は、これから確実に増えていく。アンドロイドの権利を訴えるという口実で、VOCALOID達を商用に利用しようとする連中も出てくる。
 守らねばなるまいよ、秋山博士。我ら『HNNR』と、秋山研究所の面々で。心あるアンドロイドは、非常にデリケートな問題になるのだ。私達人間が背負う真の苦しみはきっと、これから始まる」
 「……承知の上です。それでも私は、リンとレンを初めとする家族のために、身を盾にしてもこの道を行く覚悟でいます」
 断言する。リンと出会った時から、いずれぶつかる壁であることは分かっていた。逃げるつもりはない。彼女達のためなら、どんなことでも乗り越えてみせる。
 ニコツーにおいては最大の権力を持つ『HNNR』の会長が、協力を宣言してくれたのだ。もはや、恐れることはなにもない。
 「お力添えに、感謝します」
 「水臭いことを言わないでくれたまえ。礼をせねばならんのは、私のほうなのだから」
 お互いに笑い合った後、美鈴は立ち上がった。ステージの調整には、自分も参加している。やらなければならない仕事が増えたのだ。
 「まったく、メイコ達も成長していたんだな。近くにいながら、気づけませんでした」
 「子というのは、常にそういうものだ。気づけばすっかり大きくなっている。しかし、どれほど成長したとて、子は子なのだ」
 「えぇ。ようやく……理解できた気がします」
 呟いて、会長室の扉に向かう。その背に、ビリーの声がかかった。
 「私はもう、このライブには干渉しない。君達の成長を、そして……これから羽ばたいていく道を、私に見せてくれ。期待している」
 「……はい」
 会長室を後にして、美鈴は廊下を歩きながら、思う。
 羽ばたこう。どこまでも遠くに、誰よりも高く。大切なことを思い出させてくれた、再び笑顔を取り戻してくれた少女と共に。
 科学者としてではなく、人間としてでもなく。ただ、彼女の家族として。
 ココロ繋がる、家族として。




 デビューライブ当日の朝。リンは大きく伸びをして、空を見上げた。天気は晴れ。手を伸ばせば届きそうな雲が、ぷかぷかと浮いている。
 身だしなみをチェックする。お気に入りの白いリボンを頭につけて、襟や胸のリボンに黄色をあしらったセーラーのノースリーブシャツ。黒いホットパンツと、ラバーブーツ。簡易アクセスコンピューター付きの袖も、いつも通り。
 緊張はない。あるのは、溢れんばかりの未来への希望だ。500年の時を超えて踏み出す、心を届ける長い旅の第一歩。
 「行こうか」
 声をかけられ、振り返る。リンと同じカラーデザインの半そでシャツと離れ袖。黄色いネクタイをつけていて、黒いハーフパンツを履いている。ブーツもお揃いだ。
 まさに、鏡に映った男の子の自分だ。リンは頷いて、鏡像の少年、レンの手を取った。
 「うん、行こう」
 研究所の駐車場に向かう。美鈴はもうセンタードームに入っており、今日は立川が送ってくれるそうだ。車の外で待機していた立川は、今日はVIP席で見ることになっているらしく、珍しくスーツ姿だ。
 慣れないのだろう、ネクタイをしきりに気にしながら、リンとレンに目配せする。
 「来たか。出発するぞ」
 「はい」
 小型のボックスタイプの陸上自動車に乗り込む。立川はもちろん運転席へ、2人は後部座席へ。
 エンジンがかかる。美鈴のエアカーにはない、独特の振動が3人を包む。ゆっくりと、車が動き出した。
 車窓の外に流れていく見慣れた町並みも、今日はどこか新鮮に見えた。まるで、街全体がリンとレンを祝福してくれているかのような、不思議な気持ちになる。
 「歌のプログラムは、故障せずにブレインに入っているか?」
 聞かれ、リンとレンは顔を見合わせた。簡単に壊れるものではないが、立川の性格だ。念のための確認だろう。
 「はい、ちゃんと入ってます」
 「ま、壊れてても、そらで歌えるくらい練習したんだけどね」
 シートベルトをつけていないレンが言った。仕方なく彼のシートベルトをつけてやりながら、リンもそれには同意する。
 「私も、ちゃんと覚えてますよ」
 「アンドロイドに、覚える努力というものが必要なのかが疑問だが」
 「んー、確かに。1回データ見ちゃえば、忘れるなんてことはあんまりないですね」
 振動でずれるリボンを直しながら、答える。立川はそれ以上何も言わず、運転に集中してしまった。あまり会話をしないのは、相変わらずだ。
 車がハイウェイに入る。ここまで来ると、到着は早い。車だけが高速で走る道路に、レンはやはり目を奪われた。
 車高が低い、真紅のスポーツタイプの車が駆け抜ける。気に入ったらしく、レンがはしゃぐ。
 「すっげー、なぁオサム、今の車なに?」
 「TH-SD500。ヨーツベ共和国にあるレッドフィーンド社製のスポーツカーだ。全てがオンロードに特化した超レース仕様の車。一台あたりの相場は、ヤンの年収の50倍といったところだな」
 「なんかよくわかんないけど、すごい車なんだな!」
 理解していないが、レンは満足そうだ。いつか欲しいな、などと隣で呟いている。リンは怖いので、できれば隣に乗りたくないと思った。
 下道に降りてしばらく走り、車はセンタードームに到着する。検問を抜け、スタッフ専用の地下駐車場に車を止めた。
 独特の音響を持つ地下駐車場に、ドアを閉める音が響く。見れば、機材を運ぶトラックやスタッフの車が、所狭しと止まっていた。
 「さて」
 立川が切り出す。振り向くと、彼はズボンのポケットに手を突っ込んで、2人を見ていた。
 「俺はこれから秋山のところにいく。お前達とは別行動になるが」
 「あ、大丈夫です。ここの見取り図は頭に入ってますから。ありがとうございました」
 「ありがとう、オサム。また車乗せてくれよ」
 頷く立川は、何か言いたげな素振りを見せた。とても珍しいので、リンとレンはきょとんと彼を見上げた。
 「……リン、レン」
 「はい」
 「なに?」
 何か、とても大切なことを伝えようとしている。それは分かるのだが、立川は中々続きを言ってくれない。時間が押しているわけではないが、言いにくいことなのだろうか。
 しばらく経って、立川は溜息と一緒に肩をすくめた。理解できずに、リンはレンと顔をあわせる。
 「気にするな。大したことじゃない」
 「いいんですか? 何か気になることがあるなら……」
 言いかけた、その時。立川の手が、リンとレンの頭に置かれた。彼に撫でられるなど、まずあり得ないと思っていただけに、とても驚いた。レンも同様らしく、目を丸くしている。
 立川は、彼らしくない落ち着いた声で、言った。
 「……がんばってこい。楽しみにしている」
 驚いて顔を上げると、そこにはもういつもの立川が憮然とした表情で立っているだけだった。頭に置かれた手も離れて、まるで一瞬の間に夢を見ていたようだ。撫でられた感触だけが、それが真実であったと教えてくれた。
 「任せといてよ! オサムも思わず立ち上がるようなライブにしてみせるから!」
 レンが答えると、立川は一瞬だけ笑った。リンも慌てて、頷く。
 「私も、私もがんばります! 立川さんにも、いっぱい楽しんでもらえるように!」
 「……ふん」
 無愛想に去っていく立川だが、踵を返す前に見せた笑みは、嘘ではないだろう。2人は立川を見送ってから、スタッフ用の通路に向かった。
 作業スペースであるため、廊下は非常に地味である。ただ、ライブの時はここまで熱気で溢れているのは、いつも通りだった。
 メンテナンスルームに向かう途中、見知った顔と出会った。その名を呼んで、駆け寄る。
 「ショボンおじさん、ドクオさん!」
 「おや、リンちゃん」
 破顔して出迎えてくれた将盆は、飛びついたリンをそのまま抱き上げて、そっと地面に下ろした。
 「いよいよだね。がんばるんだよ。特等席で見させてもらうからね」
 「はい、がんばります!」
 「レン君も、楽しんでおいで」
 通信端末の映像越しで会話した程度で、直接会うのはこれが初めての2人だが、レンと将盆はすぐに打ち解けていた。証拠に、レンはにっこりと笑う。
 「うん!」
 「いい返事だ」
 そう言って、将盆は2人の頭を撫でてくれた。大きくて硬い手だけれど、とても心地が良い。リンはこの手が大好きだった。
 ふと、隣にいる青年に違和感を感じる。いつも一緒にいるはずのブーンがいない。
 「あれ? ドクオさん、ブーンさんは?」
 「……俺の親友だったブーン・タイレルは死んだ」
 「……え?」
 何かあったのだろうか。文面のまま受け止めたリンは、ライブ前だというのに軽いショックを受ける。しかし、すぐに後ろから、それを否定する声が聞こえた。
 「おっと、そうは問屋が卸さんお」
 「その声は!」
 大げさにドクオが振り返る。その先には、彼の親友、ブーンが立っていた。綺麗目な格好をしているドクオに比べると、ずいぶんカジュアルな服装だ。
 だが、目を引くのは彼の隣の人物だろう。ブーンと同世代くらいの、ブロンドのツインテールを揺らした美しい女性だ。
 「貴様……! なぜここに!」
 「秋山博士が、特別に許してくれたんだお。時間になったら席に行くけど」
 「くそっ! こんな優遇が許されていいわけがっ!」
 わめくドクオの首根っこを掴んで、将盆が黙らせる。呆気に取られて見ていると、ようやく気づいたブーンが、隣の女性を指差した。
 「あぁ、紹介するお。ツン・ミリシア。ブーンの彼女だお」
 「かのじょ?」
 レンが首を傾げる。ブーンは頷いて、
 「恋人ってことだお」 
 わずかに照れて、ツンは一礼した。その姿たるや、まるで一輪の美しい花のようだ。
 「美人さんですねぇ」
 正直に言うと、ブーンは嬉しそうに笑った。リンとレンの前で、膝を折る。
 「今日はブーンも思いっきり騒ぐお。ツンも今はおしとやかに見えるけど、ライブじゃ誰よりも飛び跳ねるお」
 「ブーン!」
 「おっおっ、ライブ席に行く時間だおー」
 怒ったツンに追いかけられながら、ブーンは皆に聞こえる大きな声で言った。
 「ファイトだお! 客席から見守ってるお!」
 「ありがとうございます!」
 リンも負けじと大声で返し、2人が去っていくのを見守った。やがて静けさを取り戻した廊下で、将盆とドクオに振り返る。
 しなびた野菜のようになったドクオが、そこにいた。気の毒になって、声をかける。
 「あの、ドクオさん?」
 返事がない。まるで屍のようだ。隣で将盆が呆れたように溜息をついた。
 「彼は気にしなくていいよ。それより、美鈴ちゃんには伝えてあるんだが、ライブの後、僕の店で打ち上げをやるそうだよ。さすがにスタッフは入りきらないから、身内だけでという話だ」
 「あ、そうなんですか? 美鈴さんからは聞いてなかったです」
 「忙しかったからね、許してあげておくれ」
 責めるつもりもなかったが、それでも庇う将盆は、やはり優しい人だなとリンは思った。隣のレンも同じ印象を受けたらしく、頷いている。
 「参加者は、君達VOCALOIDと、秋山研究所のみんな。マリーちゃんやトラボルタ先生もくるだろうね。それから……ドクオ君とブーン君、ツンさんも」
 「えっ。マジっすか」
 突然顔を起こして、ドクオが言った。将盆が頷く。
 「うん。当然、ミクちゃんも来る。だからその辛気臭い顔をやめなさい」
 「うっは! 俄然気合入ってきた。もうブーンとかどうでもいいし、全然知らねぇし!」
 「……ほら、気にしなくていいだろう?」
 呆れたように、将盆が親指でドクオを指す。リンとレンは、2人して声を上げて笑った。
 すっかり話し込んでしまったが、もう時間だ。
 「それじゃ、私達は行きますね」
 「あぁ、行ってらっしゃい」
 「VIP席から応援してるぜ!」
 ドクオが向けた掌にタッチして、リンとレンは駆け足でメンテナンスルームに向かった。指紋認証はできないので、事前に教えられていたパスワードを入力して、無機質な扉を開ける。
 そして、リンは悲鳴を上げた。
 「わあぁぁぁっ!」
 「うおぉぉぉっ!?」
 上半身裸でズボンをはきかけたヤンが、足を一本突っ込んだままの体勢で器用に叫ぶ。ヤンの後ろにいるルカと、リンの横に立つレンだけが、冷静だ。
 「なななな、何してるんですか!」
 「そりゃこっちの台詞だ! ……あれ、こっちか?」
 「あっちよ。さっさと服着なさい」
 溜息をついて、ルカがヤンの背中を押した。言われるままに着替える大男に、レンが尋ねる。
 「でも、なんでこんなところで着替えてるんだ? 家で着てくればいいじゃないか」
 「ライブ前に一仕事頼まれたのよ。メイコとミクが、カイトのファンに本人がチケットを配るサービスをやるんだっていきなり言い出して、そのボディーガードをさせられたってわけ」
 「さすがに私服ってわけにもいかねぇから、ここの警備員の服を借りたんだわ」
 「なるほど」
 2人して納得する。とりあえず、メンテナンスルームに来た目的を果たさなければと、リンとレンはテーブルに置かれたインカムを装着した。
 セットするだけで、ブレインに接続される。マイクの役割ももちろんあるが、切り替えれば美鈴や他のアンドロイド、舞台裏のスタッフと連絡が取れる仕組みになっている。操作はブレイン内で行えるので、観客には伝わりにくい。
 真新しいインカムをいじくっていると、ルカが2人の前にしゃがみこんだ。
 「よく似合っているわ、2人とも」
 「ありがとうございます」
 「……本当に、とても似合ってる」
 VOCALOIDとして立つリンとレンを見つめるその瞳には、羨望が混ざっていることに、2人は気づいた。眩しいものを見るように、ルカは目を細める。
 「あなた達がステージで歌う。これはきっと、運命だったのかもしれないわね」
 「……運命……」
 言葉を噛み締めるように、レンが呟いた。頷いたルカが、立ち上がる。
 「心を持つべくして生まれた2人が、心を病んだ人々のために歌う。ただの偶然だなんて思えないわよ」
 「俺も同感だ。リンを拾った時には思いもしなかったけどよ、今はお前らがVOCALOIDになるために生まれてきたんだって、心底思えるようになったぜ。
 これから初舞台だってのに、堂々としてるのが何よりの証拠じゃねぇか」
 「えぇ。本当に、まるで昔から歌ってきたかのよう」
 あまりに褒められるので、リンはくすぐったくなって照れ笑いを浮かべた。レンも似たような顔で、頬を掻いている。
 「……VOCALOIDにならなかった私の代わりに、重圧を押し付けてしまってごめんなさい」
 突然、ルカが詫びた。リンはそれに、慌てずに首を振る。
 「いえ、謝らないでください。私とレンの意思ですから。今はすっごい楽しみなんです。重圧だなんて思ってないですから」
 「そうそう。むしろ俺らがVOCALOIDになっちゃって、ルカに申し訳ないくらいだよ」
 屈託なく、リンとレンは笑う。つられて、ルカも笑った。
 「そうね。もったいないことをしたかもね」
 「……ルカ」
 心配したのか、ヤンがルカの肩に手を置いた。そこに右手を重ねて、ルカは目を閉じ、微笑む。
 「大丈夫よ。ありがとう」
 手を離した後、パッと明るい表情になって、ルカは2人の手を握った。
 「それじゃ、私達は客席に行くわ。期待してるからね」
 「MCの時にでっけぇ声で叫ぶから、聞き逃すなよ」
 ヤンが、親指を立てる。ルカに解放された手で、リンとレンはそれに同じようにして答えた。
 2人が去って、メンテナンスルームに静けさが戻る。妙な寂しさを覚えて、二人はさっさと準備を済ませて、廊下に出た。
 ステージの裏に続く専用エレベーターに行くには、VIP席に繋がるエレベーターの前を通ることになる。何度も使った道の途中、リンは思わず駆け出していた。
 視線の先、リンが走り出した理由の少女が、こちらを見てパッと人形のように笑った。
 「リン!」
 「マリー!」
 抱きついて、リンはマリーの両手を握る。追いついてきたレンは、マリーの後ろにいるトラボルタに挨拶をした。
 「よ、トラボルタ」
 「やぁレン。調子は良さそうだね」
 「もちろん!」
 ガッツポーズを取るレンに、トラボルタは微笑む。
 もうすでに感極まっているのか、マリーはわずかに潤んだ瞳で、握ったリンの両手をブンブンと縦に振った。
 「緊張していませんか? がんばってくださいね、私、私、応援していますから!」
 「う、うん」
 あまりの勢いに気圧されながらも、リンはマリーの小さな手を握り返した。
 「がんばるよ。見ててね、マリー」
 「もちろんですわ、目に焼き付けますわ! あぁ、リンが本当にVOCALOIDになるなんて、夢みたいですわ」
 「あはは、あれだけ嫌がってたもんなぁ」
 ごまかすように、リンは頭を掻いた。その様子を見ていたトラボルタが、彼独特の深い優しさのある笑顔を見せる。
 「リンとレンは、自分の本当の価値に気づけたんだ。心を伝え、贈る。それを誰よりも得意とする自分達に。歌という手段を選んでくれたことが、僕は本当に嬉しい。君達の作る、そう、伝説に力を貸せるから」
 「伝説だなんて、そんな」
 「そ、そうだよ。俺もリンも、そんな大層なことするわけじゃないし」
 「いいえ!」
 謙遜するリンとレンに、マリーが両手を広げた。
 「伝説ですわ! だって、2人は心があるんですのよ? 心あるアンドロイドが、超天才の美鈴さんと運命的な出会いを果たして、沢山の人と繋がって……。
 これを伝説と呼ばずして、何を伝説と呼べばいいのでしょうか!」
 「マ、マリー。ありがとう、だけど落ち着いて」
 なんとかなだめて、リンはしばらく目を閉じる。この1年。生まれてからここまでの500年を思えば、あまりに短い。
 だが、とても輝いていた1年間だった。手に入れた心、沢山の出会い。マリーの言うとおり、少なくともリンの中では、伝説と呼べるほどの奇跡が詰まっている。
 「そうだね……。伝説ってのも、大げさじゃないかもね」
 「うん。本当に」
 隣で、レンも似たように目をつむっていた。顔を上げたリンは、マリーの目を見る。純粋で、澄んだ綺麗な瞳だった。
 「美鈴さんやレン達ももちろんそうだけど……。私が心を大切にしたいと思えたのは、マリーのおかげなんだよ」
 「……リン」
 「初めての友達だもんね。親友だって言ってくれた時、本当に嬉しかった。クリプトン博士がずっと言ってた、いつかリンにも友達の大切さが分かるって言葉が、やっと分かったの。教えてくれたのは、マリーなんだよ。
 今日は、いろんな人に歌を聴いてほしいって思ってる。でも、友達の中で誰よりも今日の歌を届けたいのは……マリー、あなただよ」
 リンは、マリーを抱きしめた。小さくて華奢な体だけれど、リンは逆に包み込まれているような感触を覚える。
 「友達になってくれて、ありがとう。大好きだよ、マリー」
 「……私も、リンとお友達になれて、嬉しいの。大好きですわ、リン」
 ぎゅっと抱き返してくるマリーと離れるのは、とても心惜しかった。しかし、いつまでもそうしているわけにもいかず、リンはそっとマリーを解放する。
 その隣で、レンはトラボルタに、自分の頭を示しながら言った。
 「作ってくれた歌、すごいね。練習したけど、何回歌ってもドキドキが止まらなかったよ」
 「……あの歌は、強い力がある。歌いこなすのは難しいと思うし、君達にとっては重すぎるかもしれない。それでも――」
 言いかけたトラボルタを、レンは遮る。にんまりと、男の子らしい笑顔を浮かべ、
 「大丈夫! 俺もリンも、ばっちり歌ってみせるよ!」
 堂々たる宣言。何も恐れぬその瞳に、トラボルタは破顔した。
 「……強いなぁ、君達は」
 「えへへ、そうだろ?」
 VIP用エレベーターが下りてくる。短い別れの時だ。開いた扉に、トラボルタが足を踏み入れた。そして、名残惜しそうに留まるマリーを呼ぶ。
 「マリア、行くよ」
 「……」
 しばらくモジモジしていたマリーだったが、突然リンとレンに飛びついて、その頬に軽く、口付けをした。親愛の意味を込めたキスに、2人は戸惑う。
 すぐにエレベーターに乗り込んで、マリーは手を振った。
 「見ていますわ! 聴いていますわ! がんばってくださいね!」
 扉が閉まり、エレベーターが動き出す。しばらく呆然としていた2人だが、お互いに顔を見合わせて、笑った。
 「……行こっか」
 「おう」
 舞台の裏手に続くエレベーターに乗る。動き出したエレベーターは、思いのほかすぐに止まった。ドアが開くと同時に、ステージの音と舞台裏の喧騒が耳に届く。ライブはもう、始まっていた。
 思ったより、舞台裏は暗かった。ステージが明るすぎるのもあるのだが。リンとレンは、それでも迷わず進む。
 舞台袖に辿り着いた。ステージの上で、カイトが歌っているのが見えた。トラボルタが用意したという、カイトにしては珍しい明るい歌だった。ミクとメイコは、恐らくステージの前の方で客席にパフォーマンスをしているのだろう。
 大音響と眩しい光景に目を奪われていると、その両肩に手が置かれた。
 「やぁ、いい格好じゃないか」
 振り返る。いつか着ていたワインレッドのスーツを身に纏った美鈴が、そこに立っていた。リンとレンは、満面の笑みでそれに答える。
 「美鈴さん」
 「あぁ、準備は万端みたいだな」
 言いながらも、美鈴はリンとレンの襟やインカムをしきりに気にして、微妙な角度までも調整している。
 散々弄られたが、結局何が変わったのか良く分からなかった。しかし、美鈴が気にかけてくれているというだけで、嬉しい。
 「観客は超満員だ。君達のために、これだけの人が集まってくれた」
 「すごいですねぇ。うーん、今になっても、自分がVOCALOIDになったって実感が沸かないなぁ」
 「おいおい」
 頬を緩めて、美鈴はリンとレンの肩を掴み、優しく舞台の方を向かせる。2人の肩の間から、彼女は顔を出した。
 「もう、言葉はいらないだろう。君達とは、散々話したからね」
 美鈴の顔が見えないのが、少し寂しかった。でも、振り返るようなことはしない。視線はステージから、動かさない。
 「リン、レン。君達の起こす奇跡は、ここからだ。世界はもう、目の前だ!」
 「はい!」
 「うん!」
 元気一杯で答える。後ろで美鈴が、満足そうに微笑むのが分かった。肩に置かれた手が離れ、美鈴の声が遠くなる。
 「行っておいで。私はちゃんと、受け取るからね」
 愛しい声が、聞こえなくなる。代わりに、観客の歓声が響いた。カイトの歌が終わったようだ。3人のVOCALOIDのMCが始まった。
 レンが、手を握ってきた。強く、握り返す。ステージが静まり、MCの声がいっそう良く聞こえる。
 光り輝くスポットライトの中に、リンは父の幻を見た。見守ってくれている。聴いてくれているのだ。
 姉達の声に呼ばれた時、いよいよ始まる。『KOKORO』プログラムではない、もっと大切なモノを世界中に届ける旅が。




 スポットライトが、ステージを照らす。客席は超満員。どころか、最上部にある通路までもが埋まっている。カイトが集めたファン達だ。カイトの応援幕まで張られたそれを見上げながら、メイコが片眉を吊り上げた。
 『よくもまぁ、この短時間で作ったわねー、あんたら』
 マイクを使っているのだから、当然本人達に届く。 メイコだからこそ許されるMCに、ミクとカイトは苦笑いだ。
 『今日の主役は、私達じゃないんだけどね。カイトさんはモテモテだぁ』
 人差し指で、ミクがカイトをつついた。客席で笑いが起こる。その様子を横目に、メイコはじっとりとした視線をカイトに向けた。
 『もうあんた、あそこで歌ってくれば? あの子らにとっちゃ、カイトが主役なんだから』
 『ここまできて、それはないだろう? 酷いなぁメイコは』
 カイトが言うと、彼のファン専用フロアと化した入り口付近から、メイコに対する野次が飛んだ。さすがに予想外の自体にカイトは困惑したが、メイコはまるで動じない。
 『何よ、あんた達だってその方がいいんじゃないのー?』
 『メイコさん、煽ってどうするの』
 呆れたミクが、メイコの肩を掴む。すると、客席中央から「俺も煽って!」などという声が上がり、ステージも観客も笑いに包まれた。
 『煽られたきゃ、私にケンカを売りなさい!』
 『どんなライブだい、まったくもう』
 がっくりと、カイトが肩を落とす。普段でもよくあるやりとりを、そのままステージでやってのける。それが彼らなりのファンサービスだと、3人は思っていた。
 気を取り直して、ミクがその場を仕切る。
 『でも、さっきも言った通り、今日の主役は私達じゃないんですよ。みんなも知ってて来てくれてるんだと思うけどね』
 『あぁ、そうそう。私らの妹と弟がね、とうとうここで歌うことになりました』
 客席から、大きな拍手と歓声が起こった。それが静まってから、カイトが続ける。
 『僕とメイコが、ある日を境に突然変わったのは、みんなも承知のことだと思う。そう、ある日僕らは、心を手に入れた。その心を届けてくれたのが――実は、彼らなんだ。何があったのかは、まぁ企業秘密なんだけど』
 『色々事情があってね。まぁうちのボスがケチだってのが一番大きいんだけど』
 『メイコさんは、いつも無茶苦茶言うんだから。後で会長さんに叱られますよ?』
 『口ゲンカで私に勝てるわけないじゃない。ねぇ?』
 ファンに尋ねる。客席からは、笑いと共に肯定の声が返ってきた。満足げに頷いてから、メイコはブレインで信号を送った。控えている主役に、そろそろだと伝えたのだ。
 『あの子達は特別よ。歌はまだまだ、私達には及ばないだろうけど……なんていうかなぁ。隠されたパワーがあるの。きっと、みんなも聞けば分かると思うわ』
 『いつまでも引っ張っててもしょうがない。本日の主役を紹介しよう!』
 カイトが大げさに両手を広げる。演技っぽい仕草だが、スポットライトに照らされた彼がやると、様になるものだ。
 『遥か時空の彼方からやってきた奇跡のアンドロイド! 毒の大地を照らす新しい太陽のようなその少年と少女の名は、鏡音!』
 ミクが、舞台袖に手を向ける。その笑顔の、なんと嬉しそうなことか。
 『リン!』
 メイコもまた、舞台袖に手を差し出した。さぁ、ここに上がっておいで。そう言うかのように。
 『レン!』
 ドームを埋め尽くすほどの、大きな歓声。リンとレンは、とうとうステージに、躍り出た。改めて見渡すと、客席全てが埋まったセンタードームの姿は、圧巻の一言に尽きる。
 しかし、それでも、リンとレンは怖気つかなかった。自分に向けられる幾万の視線を受け止めて、リンはひまわりのような笑顔で、手を上げた。
 『初めまして! 私、鏡音リンです!』
 『俺は鏡音レン! みんな、よろしくな!』
 レンもまた、手を振って叫んだ。大勢の観衆から、よろしく、や、初めまして、といった声が返ってくる。その1つも聞き逃すまいと、リンとレンは静まり返るまでじっと待った。
 やがて、ステージは静けさを取り戻す。ミクに肩を押されて、リンは話は始めた。
 『私とレンは……VOCALOIDとして作られたわけではありません』
 一瞬、客席がどよめく。しかし、それに被せるように、リンは続けた。
 『歌を歌う機能はあるけど、うまく使えるかも分からない。本当に、人前で歌ったことがほとんどないの。レンもそう。ミクちゃんとメイコさんとカイトさんみたいに、上手に歌えるかどうか、ちょっとわかんない』
 『変だよなぁ、VOCALOIDなのに、うまく歌えるか分からないなんてさ』
 『うん。きっとみんなみたいに上手なパフォーマンスもできないと思うの。でもね』
 リンは訴える。客席だけじゃなく、世界中に。
 『私は伝えたい。私の歌を。手に入れた世界を! いっぱいのアリガトウを!』
 『皆に届けたいんだ。俺の想いを。見つけた希望を! たくさんのアリガトウを!』
 広い広いドームに、そして世界中に、歓声が起こった。リンとレンは、手を繋いで、ステージの中央に踏み出す。
 『私とレンを奇跡と呼んでくれる人に、そして、奇跡を待つ世界中の人に』
 イントロが始まる。鈴のような音色が奏でるイントロの後、4つ打ちのメロディアスな旋律が流れ出す。レンが、客席を、その向こうに広がる全ての人々を見つめた。
 『俺達の歌、届けます』
 走馬灯のように、リンのブレインに無数の記憶が蘇る。亡くした悲しみ、長い孤独、生まれた希望、見つけた絆、手に入れた心。
 『聴いてください』
 客席が、総立ちになる。リンとレンは、大きく息を吸い込んだ。

 『贈ります。――――《ココロ》――――』





 この日、『ココロ』を持つのロボットは、歌声と共に羽ばたいた。
 彼女達の運命は、多くの絆を胸に、広い広い世界を巡る。

 ――無限に紡がれる、『キセキ』と共に。




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